静岡市内のカトリック教会
「聖霊降臨の時、弟子たちは聖霊の賜物を受け、その助けによって、全世界に力強く、福音を宣べ伝えました。この聖霊は、同じく今日受堅者の上に注がれ。彼らを力づけてくださいます。」
2024.11.10 堅信の秘跡「洗礼の約束の更新」司教の祈りより
イエスはお答えになった。
「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」
カトリック教会にいらっしゃいませんか。
時には神様の前で、心静かに自分自身を見つめるときが必要です。
静岡市内のカトリック教会へようこそ
教会はいつも開かれています
教会に行ってみようかな、でも誰も知っている人はいないし、紹介もないのに行ってもいいのかな、と
不安をお持ちの方。どんな方でも教会は開かれています。お気軽にお越しください。
静かに祈る時間がほしい方・神と向き合ったり・自分自身を見つめたりしたい方
何か人生の大切なものを見失っているのではないかと不安をお抱えの方、是非教会をお訪ねください。
心の片隅にモヤがかかっている時にこそ、神はあなたに呼びかけているのです。
この呼びかけに応えるのはご自身の自由ですが、
これに応えることによってあなたの人生は全く異なったものになるかもしれません。
少しの勇気をだして、教会にいらっしゃいませんか?
初めての教会 -初心者マークのあなたへ-
すべての人に開かれた祈りの家
教会の扉はいつでも、すべての人に開かれています。遠慮なく、どなたでもお入りください。
疲れた時・不安な時・心が泣きそうな時・そして喜びにあふれた時、神様に語りかけてください。
教会では、主日(日曜日)のミサの他、勉強会やその他様々な活動も行っています。
洗礼を受けていない方でもご参加いただけますので、お気軽に遊びにお越しください。
初めての教会 -初心者マークのあなたへ-
「教会ってどんなところ?」「何をしてるの?」「誰が行ってもいいの?」「どんな時に、どんな人が行くの?」等、教会の気になることや分からないことにQ&A形式でお答えします。
※このページに記載されていない、気になることや分からないことは、各教会にてお気軽に直接お尋ねください。
誰でも教会に行ってもいいの?
どなたにでも教会は開かれています。
悩みや、救いを求める人はもちろんのこと、どなたでもお越しいただけます。
主日(日曜日)には「ミサ」という礼拝を行っています。
一緒に祈り、神様の教えを聴きましょう。
※ミサの時間は、それぞれの教会ページでご確認いただくか、または各教会までお問い合わせください。
ミサって何?
一番大事な「祈り」のことです。
『ミサ』とは、カトリック教会で行う一番大事な祈りで、十字架の上の死に向かわれる前の晩にイエス・キリストが弟子たちとなさった「最後の晩餐」を記念するものです。
弟子たちはイエス・キリストが復活された「週の初めの日」(日曜日)を「主の日(主日)」と呼んで、この記念を行っていました。カトリック教会は、それを現代の「ミサ」の形で2,000年の間継承し、ともに祈る大切なものとしています。
ミサの前半では、「聖書」が読まれます。「神の言葉」を聴き、そのメッセージから新たに生きる力や励ましをいただく「説教」が行われます。ミサの後半では、「最後の晩餐」の記念が行われます。
信者は、イエス様が弟子たちと一緒に食事を摂られた時にパンとぶどう酒の杯を手に取り、「これは、あなたがたに渡される私の体である。これは、私の血である。私の記念としてこれを行いなさい。」(ルカ22、19~20)と言われた「聖体」をいただきます。
「聖体」とは、キリストの十字架の上の死と復活を記念して、ミサの中で洗礼を受けている信者がいただくことのできるパンをいい、この「聖体」をいただく記念を「聖体拝領」といいます。洗礼を受けていらっしゃらない方は「聖体」をお納めいただくことはできませんが、ご希望の方は一緒に並んで司祭から「祝福の祈り」を受けることができます。
日曜日のミサは約1時間で、クリスマスや復活祭など大きな祝日のミサは1時間半から2時間半程です。
※『ミサ』の語源は、ラテン語で「派遣」を意味する言葉です。ラテン語のミサの最後の言葉が「ITE MISSA EST(行け、終わった)」であるところから、そう呼ばれるようになりました。
誰でもミサに参列できるの?
どなたでもご参列いただけます。
初めての方は、教会スタッフにお尋ねいただければご案内いたします。
見学してもいいの?
見学は原則として自由です。
ただし、ミサや行事などが行われている場合はご遠慮ください。
神父様ってどんな人?
神父様は、神様の声を私たちに伝える役割を持つ人です。教会の中では、皆のために祈ったり悩みや相談を一緒に考えたりする「お父さん」のような存在の人です。神父様に会って話をしたい方は、お電話で都合を聞いてからのご訪問をオススメいたします。
キリスト教を学ぶためのクラスはあるの?
各教会すべてにあります。また、子供たちのために教会学校も開いています。
詳細は、それぞれの教会ページでご確認いただくか、または各教会までお問い合わせください。
ミサと教会学校の他に何かやってるの?
各教会では様々な催しを行っています。
様々な講座(カトリック入門講座・信仰養成講座、他)や聖書を読む会・バザーや遠足・夏季キャンプ・ボランティア活動・敬老の祝福式や子供の祝福式(七五三)・復活祭(イースター)や降誕祭(クリスマス)等多くの催しがあり、結婚式や葬儀も行います。
※結婚式では、カトリック教会での結婚式になり、お二人のうちどちらかがカトリック信者であることが原則ですが、一般の方でも受け付けている教会(カトリック静岡教会・カトリック清水教会)もあります。また、神父様とお話して所定の条件がそろえば洗礼を受けていない方のカップルも結婚式を挙げることができる場合もあります。詳しくは、それぞれの教会にお尋ねください。
キリスト教の信者になるには、どうしたら良いの?
信者になるには「洗礼」を受ける必要があります。洗礼のためには一定期間、入門講座に参加をする等していただくことになります。洗礼をご希望の方は、各教会の司祭にご相談ください。
教会とは、悩みを聞いてもらえる場であり、多くの人たちと交流できる場でもあります。
様々な顔を持つ場、教会
いかがでしたか?「教会とはいったいどんなところなの?」等の疑問にお答えできましたでしょうか?
教会では、ミサや教会学校のみでなく様々な講座が開かれているなど多くの催しが行われているのです。
教会とは、悩みを聞いてもらえる場であると同時に、多くの人たちと交流できるコミュニティの場でもあります。
いつでも、どなたにでも開かれている場所、教会に一度足を運んでみてはいかがでしょうか?
お問い合わせも、いつでもお待ちしております。お気軽にお電話ください。
「感謝・願い・賛美」祈りのある生活
ミサ 神の愛の記念
教会学校の子供たち
2024年 静清地区合同堅信式
2024年11月10日(日)10:00~14:00 静岡サレジオ・マリアンホールにて
静岡市内5教会合同の堅信式が開催されました。今までも複数の教会で開催することはあったのですが、静清地区共同宣教司牧委員会が主催して司教様をお招きし、地区在住の司祭全員で司教様と共に司式するのは、初めての試みでした。
5教会の教会委員長を中心とする実行委員会が組織され、式典の準備・運営の中核として、すべての分野で細心の心配りを忘れませんでした。
準備は1年前から進められ、祈る力を育てる部門が中心になり、横浜司教館事務局と相談しながら、式文の作成や奉仕者の割当、滞日外国籍信徒のための各国語式文の作成まで、何度も会議を重ねて準備してきました。
同時に並行して信仰を伝える部門が堅信希望者の募集や名簿の作成、受堅希望者に対する準備勉強会の企画、それも中高生に対する教会学校リーダーの協力依頼や、成人信徒対象の勉強会、ベトナム語の勉強会、フィリピン出身者等のため英語による勉強会など、現代日本の現状を反映する多様性が求められました。
神の愛を証しする部門と滞日外国籍信徒を支援する”コムニタス”は、外国籍信徒の受堅者へのサポートや、当日の祝賀会と料理の準備を担当しました。
11月10日は5教会の主日のミサはなく、朝から静岡サレジオの合同堅信式に出席するよう、信徒に勧めてきました。朝から好天に恵まれ、堅信を受ける30名の信徒たちのため、約300名を超える参加者が各国語の祈りや聖歌で祝福し、喜びを分かち合うことができました。
2024年「静岡・清水市民クリスマスコンサート」
2024年12月3日(火)
19:00 開演
清水マリナート大ホール
入場チケット代1,000円
(大人・こども共)
主催:静岡清水市民クリスマス実行委員会
「今月のメッセージ」2024年11月
「神様にゆだねる生き方挑戦中」
千代田教会信徒 山田 麻依
9月の半ば頃、栩木さんから電話がかかってきました。内容は巻頭言の依頼でした。
以前もそんなことを言われた気がする…と、今回も絶対無理です。お断りさせて頂きますと答えました。(何故なら巻頭言に掲載されている皆様の文章は毎回素晴らしく、教会や聖書の内容等に精通しておられる方ばかりで、自分にはとても無理!!)しかし何故か書くことになり今に至っております。はて?栩木さんに押されたのか?共感したのか?今もよくわかりません。
いざ何を書けばいいのか仕事中にも頭の中をぐるぐるし、色んな事が湧いては消えを繰り返し数日が過ぎ、あっという間に10月に入ってしまいました。そして単純に、私にとって神様とはなんだろうと考えた時、神様にすべてゆだねる生き方をしていけたらと思ったのです。
今の世の中いろいろなことが起こりすぎて、悩めば悩むほど肩に力が入ってしまい、考えても制限された範囲の中の解決策しか生まれません。人は深く考えると悩みの中に沈んでしまって迷子になってしまいます。私がそうです。よく迷子になってしまいます。人間の癖みたいなものです。脳がそうさせるのです。でも信じる力、祈る力も必ずあって、それを育てていけたら幸いと思うわけです。
「いついかなる時もあなたに守られていると信じることができますように
なにが起きてもあなたからの贈り物として受け入れる勇気を私にください
どんな困難な状況でも冷静でいられるように勇気と愛で満たしてください
どんな自分も愛することができますように
神様、わたしはあなたの道具です 私を必要としているところへ導いてください」
何があっても、あれでよかったんだ。これで良いのだ。と自分を認めてあげられるのは自分だけです。自分を否定するのは間違いです。自分が自分の味方をしないで誰がするのでしょうか。どんな時も神様はみていてくださる。どんな人も愛してくださる。最後の瞬間まで自分を信じて、残りの人生を神様に委ねて生きられたら幸いです。
教会の課題とはなにか。課題は山積みなのでしょうか…?人手不足でしょうか?どうしたら信者さんを増やしていけるのか?まずはお宅を訪問し勧誘する…?それもなにか違うような気がします。
教会を知ってもらえるような機会、興味を持ってもらえるような機会を作っていくのが大切なのかなと思います。興味があっても敷居が高くて入りづらいと思われているかもしれません。小さな頃、教会のバザーやクリスマス会に参加するのが大好きでした。きらきらと輝いてみえたのです。突飛な考えかもしれませんが、最近は公園などでクラフト作家さん達のマルシェ等が開催されています。手作りの作品(雑貨やお菓子)や古着等のバザーを開催してみるとか、教会で子供たちの放課後倶楽部を開催するとか…集まってくださった誰かの心に灯がともったら、それは広がっていくのではないかと思います。教会におられる方々は様々な特技をお持ちの方ばかりなので、可能性はいくらでもあるのではないでしょうか。
新型の風邪が流行する以前は日帰りでの教会訪問があり、とても楽しかったです。訪問先でのミサや歌、分かち合いも素晴らしかった。またこういう機会をもてるといいですね。
*2024年度「今月のメッセージ」掲載履歴
2024年10月
清水教会と「ブローニュの聖母」
濱田壮久神父(草薙教会・清水教会)
2023年4月に12年ぶりに静清地区に戻ってきました。清水教会の教会施設(聖堂・信徒会館)新築を進めることになりましたが、旧聖堂の祭壇上に安置されていた「ブローニュの聖母子」像は新聖堂へ受け継がれることとなりました。
この「ブローニュの聖母子像」は、1884年にフランスのブローニュで誕生したルシアン・アドルフ・ドラエ神父様によってもたらされました。ドラエ師は25歳の時に宣教師として来日し、1924年には静岡教会の主任司祭になりました。その後、1933年に清水区入江町に信徒の共同体を設立し、1935年に旧聖堂を岡町に献堂しました。第2次世界大戦後、体調を崩してフォンテノ神父様に後を託してフランスへ一時帰国をしましたが、その後、再来日し、1954年に谷津教会で帰天するまで静岡で過ごした宣教師です。
ブローニュの聖母の由来は、フランス本土の北東端、ベルギーとの国境付近、英仏海峡に面するブローニュ=シュル=メール(Boulogne-sur-Mer)の小さな漁村で636年頃、小舟に乗った聖母マリアのご像が発見されたことによります。人々が村の丘にある聖堂で夕方に祈っていた時、聖母マリアが出現し、岸辺に不思議なものがあるので見に行くようにと願いました。村の人たちが急いで岸辺に向かうと、そこには帆も櫂も無い無人の小舟が漂着しており、高さ1メートルくらいの木製の聖母子像が載っていました。幼子イエスを左腕に抱く聖母の姿を刻んだこの御像はこの世のものとも思えない妙なる光に包まれ、安らぎが満ちていました。人々はこの像を村の教会に運んで安置しました。
また別の伝承では、ある日、聖母マリアが櫂も帆も無い天使に押された小舟(ゴンドラ)に乗ってブローニュの海岸にたどり着き、村人たちが貴婦人にその名前を聞くと、聖母マリアは「漁(すなど)る者たちの守護者にして、恩寵の源、敬虔の泉」と名乗り、「あなたがたと、あなたがたの村に、神の光が注ぎますように。わたしの名において、すぐに聖堂を建ててください」とお話になったそうです。
その後、ブローニュ=シュル=メールは聖母マリアの大巡礼地となりました。ドラエ神父様はブローニュで育つ中でブローニュの聖母への敬虔な信心を育てていきました。そして、清水にカトリック教会を献堂するとき、船に乗ってブローニュの人々の前に姿を現したブローニュの聖母を守護聖人として定めました。ちなみに、清水の港については、飛鳥時代、西暦600年代にはすでに「湊(みなと)」としての機能を持っていたことが『日本書紀』に記録されています。現在の清水港周辺でつくられた船で豪族の庵原氏が百済への救援将軍として出航したそうです。
世界に開かれた清水の港に、今、新しい聖堂が献堂されようとしています。恩寵の源、敬虔の泉であるブローニュの聖母の取り次ぎのうちに、新教会が無事に竣工を迎えられるようお祈りください。
2024年9月
「つれづれなるままに」
八幡教会 信徒 田中雅浩
1.ある日の備忘録
8月15日――お盆、終戦記念日、聖母被昇天、10年前に他界した祖母の誕生日。毎週お寺に通っていた少年時代から、受洗した青年期以降、知命を過ぎた今も、ずっと花を生けている日である。そして花を生けながら、花と信仰は似ていると考える。単純に生命維持をするには、どちらも不要である。しかし、それらがあることでどれほど魂が救われることか。もっといえば学生時代に専攻した日本文学や趣味で携わってきた音楽演奏も同じだと思う。ピアノを弾いても空腹は膨れず、本をいくら読んでも収入は増えない。それでも、より人間らしく豊かに生きるため、私たちは文学や芸術そして信仰を求めずにいられない。目に見えない、触れられないものは信じることによってのみ存在するのかもしれないが、それを為し得る人間と生まれたことに、花を生けながら感謝した晩夏の一日であった。
2.余は如何にして基督信徒となりし乎
小学校卒業まで聖書に触れたこともなく、中1のカトリック倫理の授業で「タラントのたとえ話」を読んだときには「こんな酷い主人、嫌です」とブラザーに口答えをし、毎週あったカトリック研究会にも中高6年間、ついぞ一度も参加しなかった。そんな私がなぜか大学卒業後、都内の下宿近くにあるカトリック教会の御ミサに毎朝与るようになっていた。理由はいまだにわからない。ただ聖歌をうたうときと、お祈りを唱えるときだけは、自分はここにいてもいいのだと思えた。歌のメロディーやお祈りのリズムが心地よかったというよりも、現世利益を求めない文言に安らいだのだろう。私は弱く小さな存在です、だから私を強め導いてください。そう口にすることで不思議と楽になり、いつかカトリック信者として母校の教壇に立ってから帰天したいと思うようになった。そして25歳になる春のご復活徹夜祭で受洗したのであった。
3.神様のいたずら
9年前の夏、県立高校職員だったとき、友人兼代父の勤務する首都圏のキリスト教主義校の教員募集に応募した。残念ながらご縁はなかったが、翌春に県内高校生対象の文芸コンクール審査員となり、その翌夏には母校の教員に内定した。もしも首都圏の学校に勤めることになっていたら、審査員にも母校の教員にもなれなかったに違いない。また母校に赴任した同期が、文芸コンクール最優秀者のお母様だったり、授業を担当している生徒の代父が、奇しくも私の代父でもある友人であったりと、不思議なご縁ないし神様のはからいを感じている。ちなみに東京時代お世話になった徳田教会は守護聖人がヴィンセンシオ・ア・パウロ、受洗して入った富士教会にいたのは聖ビンセンシオ・ア・パウロの愛徳姉妹会のシスターたち、そして転職して静岡に来てみればそこには今春まで、ヴィンセンシオ・ア・パウロの霊名を持つ和野神父様。神様は絶対にいたずら好きだと確信している。
2024年8月
巡礼日記
自ら祈る力を育てる部門 ベルナデッタ瀧 規子(清水教会)
昨年年明けの頃、スペイン、フランス~ロー神父様を訪ねながら~という巡礼の話が舞い込んだ。魅力はあれど、5か月も迷いに迷って、初夏の頃漸く意を決した。
‘23年11月4日(土)不穏な世界情勢の中、航路はロシア上空を避け北極海を大回り。早朝のフランス・パリへ。初日モンマルトルの丘、風雨の中をサクレクール寺院へ。中央祭壇天井壁画“昇天のイエス”に圧倒されながら、地下小聖堂へ導かれ、始まる旅の行方に平安あれと思いを込めて、巡礼初ミサに臨む。
11/5(日)パリミッション会本部訪問。市民と共にミサに与る。老若総勢50名余りの司祭、宣教志願者が祭壇に居並ぶ様は壮観!感謝のうちにミサが始まる。…と突然、ちっちゃな天使が舞い降りた!可愛らしい女の子が最前列の床にちょこんと座って、一緒にミサに与る。癒された。…が、ミサ中聖体拝領前に席を立つ人影がチラホラ気になって、ちくっと胸が痛んだ。…きっと皆‘正直’なのだと思った。ミサ後、来訪者交えて80人余りの昼食会、こちらも壮観!日本への志願希望Alex助祭に人気集中!
午後は復旧工事真最中のノートルダム大聖堂へ。懸命さをひしと感じとり、思わず「Bon courage!」聖堂正面の‘ひな壇状見学席’下でにわか雨。早々にバスへ戻り、賑わしく一般観光客と化す。
11/6(月)早朝空路ポーへ。バスに乗り換えルルド着。3度目のルルドは沐浴の形式以外、何も変わっていなかった。その沐浴、何故か絶対にしないと決めてかかっていた⁈にもかかわらず、何かに背中を押されて列に並んだ。方法が変わったと知らされたせいか…? 信仰薄き者よ…。16:00脇聖堂でミサ。
11/7(火)早朝グロット(岩屋)にてミサ。寒さに震えた。ミサ中、マリア像ばかり見上げていた気がする。午後、裏手の丘の十字架の道行に続き、ベルナデッタの足跡を辿って街中を歩き回った! 意外だったのは、妹(未信者)が、姉の愚痴をたしなめつつも、文句一つ言わずついて来た事!姉(一応信者)反省!
11/8(水)国境を越えて初めてのスペイン。モンセラットベネディクト会聖マリア修道院へ。聖堂の一隅で、修道士と共に‘ロザリオ’を唱え‘晩課’に参加。後モンセラット少年聖歌隊の清々しい歌声を聴く。胸に沁みた。此処を訪ねる人々は“黒い聖母”に逢いに来る。その背中を見ながら小聖堂にてミサ。
11/9(木)早朝、中庭でミサを告げる鐘の音を聴いた。全身を高みへ持っていかれるような…あの荘厳な響きを忘れられない!もし、もう一度巡礼に来られるとしたら、絶対に此処モンセラットと決めた‼
日中バルセロナ。サグラダ・ファミリア地下聖堂にてミサ。頭上に回廊。多くの見物人に見下ろされた。建物の素晴らしさには、思った以上に感激!でも…色彩の洪水のあの空間で祈るのは難しく感じられた。
11/10(金)再びフランスへ。マルセイユ泊。
11/11(土)エクサンプロヴァンス泊。
11/12(日)アヴィニョン。いよいよパリミッション会の老人ホーム訪問。ロー神父様とは57年ぶりの再会!思いの外お元気!お身体に少し支障がおありのようだが、記憶に難ありはお歳並みかと…お話しされる様子に、清水教会での日々が懐かしく想い出された。今日は特別な日曜日。かつて日本や東アジア各地で宣教活動された、20名余りの老師方とミサに与る。感謝‼ その後、ロー神父様に関わりある人達には、特別にお部屋が用意され、共に食事ができる配慮がされた。食後は広いお庭でお喋りやら記念撮影やら、名残は尽きねど、ひと時皆さん本当に嬉しそうだった。
11/13(月)ほぼ1日アヴィニョン観光。
11/14(火)アヴィニョンから新幹線(TGV)でパリへ。ドゴール空港から帰国の途に付く。帰路は南回り、黒海上空から中国を通過、韓国上空から羽田へ。無事生還!
巡礼と銘うたれた旅は初めて。何が起きてもおかしくない昨今、とにかく無事は…只々、神に感謝‼
昔「人生とは巡礼だ」としみじみ語られた方がいた。その方から贈られた言葉がいつも胸にある。
道の終りで 誰かが私に言う。 “生きたか?” “愛したか?”
私は何も言わずに 名前でいっぱいの心を開きます。 Abbé Pierre
2024年7月
「 雪深い北国の温かい祈り 」
神の愛を証しする力を育てる部門
國松 彰(静岡教会)
私は6年前に北国の米沢教会から、静岡教会に転籍して来ました。冬には1メートルも雪が積もり厳しい寒さに包まれますが、そんな中にもこの土地特有の温かい祈りがあります。ここでは、雪深い北国の祈りを紹介いたします。
米沢市は山形県の南端の周囲を山に囲まれた盆地にあります。カトリック教会は市の中心部にあり、白いコンクリート造りで、小さいながらも威風堂々とした風貌を纏っています。
そんな米沢教会の主日のミサは参加者が10名以下の日もあり、大きなお祭りの日でも20名を超えるくらいでした。そのため、今週は司会をやって来週は朗読で次はまた司会、といったようにご奉仕の順番がすぐにやって来て、オルガンと聖歌、ミサの準備係など、その日ミサに与る全員が何らかのお役目をいただいておりました。ミサ後の聖堂のお掃除も全員参加で、ある日には、公園となっている殉教の地の草刈りや、大雪が降った後の雪かきなどなど、みなで楽しくお務めしておりました。
一生懸命働いた後は、何かにかこつけたパーティが毎週のように開催されておりました。チャリティの募金箱が設置され、誰かがコーヒーを淹れ、誰かがお菓子を持参して、神父様はギターを取り出し歌い出す。時には信仰について、時には地域の話題やたわいの無い世間話に花が咲き、分かち合いの時間が過ぎて行きました。そんな感じなので、温かい祈りが育まれてきたのではと思います。
ところで、この米沢には江戸時代初期に武家や町民、農民など数千人のキリスト教徒が、藩主の保護を受け仏教徒と共に平和な生活営んでいたそうです。時代が進み三代将軍家光の頃、禁教令の徹底が北国米沢の地にも届き、幕府の目を恐れた藩主はキリスト教徒へ棄教を進め、多くのものはそれに従いましたが、家老の一族は貫してそれに従わず、当主、奥方、子供、家来衆とその家族、領地の農民一家や使用人と総勢数十名が殉教の道を選びました。静岡で殉教と聞けば、酷い拷問や見せしめの処刑を想像するでしょうが、米沢では、処刑の直前まで棄教することを熱心に説得し、最後には形だけの棄教でも構わないからと進めたそうで、拷問などは一切なかったそうです。処刑でも、体力のある大人達は北山原と呼ばれる処刑場へ、体力のない女性や子供は屋敷近くのお寺の一角へ集められました。その処刑場への道々では家老一族を見送る人々が列をなし別れを惜しんだそうです。処刑も厳かに行われて、首も晒されることなく埋葬されました。現在の北山原は米沢教会が管理する公園となり近隣の子供達に親しまれ、お寺の一角は代々のご住職に手厚く保護されております。ある日のミサはそんな殉教の地を訪れお祈りを捧げます。当時の私は、こんな米沢教会での祈りをちょっとだけ誇らしく思うのでした。
冬には大雪が積もり、寒さが厳しい北国の教会には、こんな温かい祈りが捧げられておりました。今でも変わることなく続いていることでしょう。
2024年6月
「共に歩むための集い」でアハ体験
静清地区共同宣教司牧委員会
信仰を伝える力を育てる部門 菊地 潔
「他の教会の信徒の皆さんとは、教会の係り・担当として打ち合わせという会話はあったが、分かち合いをとおして、語り合うことができることがとても新鮮だった」と「共に歩むための集い」1回目のセッションを終えて参加された方からのお言葉です。
神様、キリスト、カトリック教会について関心をお持ちの方、また御自分の人生について、すでに洗礼を受けていても、改めて自分の信仰について見つめてみたいと思う方に静清地区共同宣教司牧委員会では、いままでの小教区での関りから静清地区という横のつながりという新しい観点に立って、「自分を知り、他者を知り、神に出会う」ために、「共に歩むための集い」をこの5月から開講いたしました。この集いに関心を持っておられる方、信徒であるなしにかかわらずどうぞ分かち合いましょう。
昨年、静清地区共同宣教司牧委員会の信仰を伝える力を育てる部門では、カトリック入門講座担当者養成コースを開講、5教会から15名の信徒が草薙教会に集結。受洗希望者のための指導者となるべき講習会との心構えで臨んだのですが、おやおやおや?「自分を知る?私はだれですか?ありのままの私?」と、そのカリキュラム内容に、「ちょっとヤバめの啓発セミナー?帰れる?中抜けできる?」と疑心暗鬼に陥りました。しかし、小田原教会の石埼さんはじめ3名のヘルパーさんとの分かち合いを中心に会を重ねる度(旅?)で、自分をさらけ出し、自分を理解することから受講者皆さんとの交わりを深め、神とのつながりを学んでいくことができました。私は30年前に静岡に戻ってきてからも、教会から離れ「枯れた葡萄の枝状態」の時期もありましたが、そんな時期でも多くの信徒の皆さんがつながっていてくれて、なんとか実がなる枝になった今の自分がここにあること。その「つながり」の重要性を学ばせていただきました。
復活節第6主日(5月5日(日))の福音朗読では「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」(ヨハネ15章12節)とありました。この一説について和野神父様は、愛するということはラブの前に、人とどう繋がっているかが大事で、繋がっていることから愛になっていくとお話しされました。他人を愛する。つまり他人と繋がるにはその人のことを知らなければならない。相手にも自分のことを知ってもらわなければならない。その自分を自分は知っているのか?なるほど、ここだ!腑に落ちた!そういえば和野神父様は受洗にあたっても、「キリスト教を学んだ期間の長い短いじゃなく、腑に落ちたタイミングだよ」ともおっしゃってました。幼児洗礼の私がこの1年かけて自分についてあらためて学んで腑に落ちたタイミング、「あ!これじゃん!」(これはもしかしてアハ体験?)が5月5日でした。
いよいよ5月からは、静岡コース、静岡夜間コース、そして清水コースが開講しました。最初の回は、それぞれの教会から集まった参加者の顔は緊張!私たちヘルパーはもっと緊張の作り笑い!しかし、自己紹介ならぬ「他己紹介」で始まった1回目のセッションは笑いに包まれ、各コース1回目を終え、昨年学んだヘルパー15名は、無事担当できたことでホッとしていることでしょう。
どのタイミングがあなたの「腑に落ちる」時か?アハな体験ができるかもしれないこの「共に歩むための集い」。途中からの参加もウェルカムですし、申し込んだコース以外への参加も大丈夫です。私たちヘルパーは、指導する立場ではありません。共に歩んで行きましょう。
2024年5月
聖母月の思い出
静岡サレジオ高等学校 教頭 中村さとみ
女子校から共学になって早20年が経ちました。今も学校法人の名称である「星美学園」の名は、創立者聖ドン・ボスコが「母・教師」と仰いでいた聖母マリアに由来します。行く手を示す「星」にたとえられる聖母マリアを保護者と仰いだからです。ですから聖母を讃える5月の行事は、クリスマス以上に盛大な学園をあげての行事であり、かつての女子校時代を過ごした年配の卒業生が、懐かしい思い出として真っ先に思い浮かべるのは5月の「聖母行列」です。幼稚園から高校まで学んだ私にとっても、それは清々しい5月の風と共によみがえる美しい思い出です。
記録を紐解くと、1954年に第一回目の聖母行列が挙行されています。当時の写真を見ると、幼稚園児から小学生、中学高校生が晴れ着の着物や花の髪飾りをつけ、華やいだ表情で準備をし、神妙な顔つきでロザリオの祈りを唱えながら行列している姿があります。学園の敷地内にとどまらず、まだ車もまばらな国道一号線や国鉄(現JR)草薙駅前までかなりの距離を行列していました。
私自身も半世紀以上も前の幼稚園の頃、頭に銀の輪をかぶって薄い桜色の衣装に天使の羽を背中に付けてもらうのがうれしくて、手を合わせて一生懸命歩いたものです。私が在学したころには大きな講堂にも入りきらないほどの園児・児童・生徒と来客で、行列のゴールは広い体育館でした。木々は新緑に輝き、園庭に白いヒメウツギの花がほころんでいたのを今でもよく覚えています。学園内は至るところ前日から大掛かりな装飾が施され、色とりどりの布や旗が校舎や運動場にはためき、当日は聖母の生涯の場面を示す扮装をした高校生や小さな天使たちが並び、青い衣装をまとった小学生の鼓笛隊のファンファーレが響きます。行列の最後に輿(こし)に担がれた聖母像が通ると、花撒き少女達の撒くバラの花びらがかぐわしく香り、さながらヨーロッパの教会のある街で繰り広げられるお祭りにも引けをとらないような華やかさでした。千人を超える生徒や教職員、来場者は行列の最後に手にもっていた赤いカーネーションを祭壇に捧げました。祈りのこめられたたくさんのカーネーションはその日のうちに生徒たちの手によって近在の病院や福祉施設、教会などに届けられました。
キリスト教になじみのない入学してすぐの生徒や近隣住民の方々はさぞかし驚かれたことかと思います。ミサで歌うたくさんの聖歌の練習に多くの時間を割き、当日は運動場で日差しの照り付ける中で整列し、長い時間をかけて歩き、上級生になればカーネーションを水切りして束ねて・・・と大掛かりな行事の大変さはありましたが、一年で最も気持ちのいい季節に何やら華やいだ雰囲気に包まれる一日は、誰もが幸せな気持ちになる日でした。
現在では時間的な制約もあって終日のお祝いはしなくなり、時代に合わせて形を変え、幼稚園から高校それぞれの年代別に、聖母の生き方に思いを巡らして祈り讃えるセレモニーや地域清掃で善行を行う形の「聖母祭」になっています。形は変わっても9日前から全校生が善行に励み、祈りを捧げる特別な行事であることには変わりません。そこに集う園児・児童・生徒たちがマリア様の徳に倣う大切な聖母月の伝統を、受け継いでいきたいと思っております。
2024年4月
病気を乗り越えて
清水教会 セシリア・ジャンヌダルク 山本 博美
先日私は60歳の誕生日を迎えることができ、自然と涙があふれました。誕生日の朝、92歳の母に電話して「お陰様で私も還暦を迎えることができました。私を産み、育ててくれてありがとうございます。」と言うことができました。私は実は、以前重い癌に罹ったことがあり、半年に及ぶ強力な抗ガン治療の末に退院したので、こんな年まで生きられるとは思っていなかったのです。現在の私しかご存じない方には想像もつかないかもしれませんが、肺に大きく転移し息をするのも大変でしたし、脳の一部にも転移し、重篤な状態でした。自分でも「もう長くは生きられないな」と悟り、絶望の中で病院の白い天井を見つめていたのを覚えています。わずか2歳の娘をおいて逝かなければならない辛さ、家族に苦労をかけてしまう申し訳なさ、治療の副作用の辛さで押しつぶされそうでした。その頃は「祈る」より、神様には文句ばかりでした。「なぜ?どうして私にこんな苦しい試練をお与えになるのですか?これ以上耐えられません。この試練を取り除いて下さい。」こうつぶやくばかりでした。
でもそんな時に、私の周りではたくさんの方が祈りを捧げて下さっていました。私が学生時代過ごしていた女子寮がある、御聖体の宣教クララ修道会ではシスター方が毎日、また家族や友人達も。そして驚いたのは、娘が突然私に「神様がちっちゃくなって、お母さんの体の中に入って病気を治してくれるの!」と言ったのです。それから私は少しずつ少しずつ変わり始め、神様に「私をあなたの御手に委ねます。」とお祈りできるようになってきました。一緒に闘病する仲間たちと励まし合い、笑いながら入院生活ができるようになっていきました。そうして3か月後にはドクターも驚きの治療効果が出て、半年後には無事に治療を終えて退院することができました。消えそうになっていた私の命に復活の炎が灯された気がします。しかしながら、私にもし信仰がなければ耐えることができなかったのではないかと思います。カトリックの家庭に生まれたわけではない私が、縁あって不二聖心に入学し、神様に出会って洗礼のお恵みを授かったことをあらためて感謝しました。治療で体がぼろぼろになり、しばらく体調の優れない期間が続きましたが、今は元気になり教会学校を担当し、かわいい子供たちとの楽しい時間を過ごさせていただいています。
こんな今でもあの試練の時を、「砂の上の足跡」という詩と共に思い起こします。この詩は、夢で主と共に砂浜を歩いている自分が後ろを振り返ると、二人分あるはずの足跡が一人しかない時があり、理由を尋ねます。すると主はこう言われました。
「私の大切な子よ、あなたを愛している。決して見捨てはしない。あなたの試練の時、砂の上にただ一人の足跡しか残されていないのは、その時私があなたを背負って歩いていたからだ。」
2024年9月
2024年10月
2024年11月
2024年12月
2025年1月
2025年2月
2025年3月
*2023年度「今月のメッセージ」掲載履歴
2024年3月
神 の ご 計 画
八幡教会・信徒 近松 優実(大学4年生)
高校性の頃、神に一つだけお願いごとをするなら、私が一生のうちで信仰を捨ててどこかへ行ってしまうことがないようにしてほしい、と思いました。これだけ聞くとなんだか信者として殊勝なお願いに思えますが、当時はそれほど信仰があったわけではありません。ただ、信仰は弱いものの神から離れてはいけないという根拠のない確信だけはあったのだと思います。しかしそう祈りながら、何度私自身が神に背を向けてこの世の虚しさを選んできたことでしょう。何度も悲しそうなイエス様のお顔に背を向けて、結局は神の御許(みもと)に戻ってくるという日々の繰り返しでした。その繰り返しの中で自分の弱さや惨めさを目の当たりにして辟易してしまう時が何度もありましたが、その度神は私を赦し、自分自身さえ見放してしまいたくなるような自分を、まるごと全部愛してくださっていることを知りました。自己嫌悪に陥る度、そんなこと今更知ったのかというように、私以上に私を知っている上で愛されていることを知りました。
聖人とはかけ離れたこんな自分だとご承知の上で救いたいと望まれ、御自ら犠牲となられたと知りました。私という存在そのものは土の塵から作られ大した価値などないと思いますが、全知全能であるこの世の創造主がひとり子をお与えになるほどに、そして御子自ら十字架にかけられるほどに大切に思ってくださっている、そのことによって測り知れない価値が私たちにはあるのだと知りました。自分の存在価値は、自分で決めるものでも他人に決められるものでもなく、ただ神ご自身によって決められ、決して揺るぐことがないのだと知りました。与えられている愛がいったいどれほどのものか、それを完全に知ることは難しいですし、そもそも愛されているという事自体簡単に感じられることではないですが、心から祈ったとき、絶えず求めるとき、神は応えてくださるように思います。どうか少しでも教えてもらえるように祈り求めていきたいと思います。
これまでの人生でこれといった将来の夢が見つからず、進路選択の度に途方に暮れ、御旨のままになりますようにと不安と信頼の間で揺れながら祈ってきた私は、今年の春からカトリックの高校で教員をすることが決まっています。一般企業に就職予定のはずが、気づけば教職を選んでいたのも、そもそも成り行きで教育学部を選択して教員免許を取得していたのも、たまたまドン・ボスコの本を読んで教職に惹かれたのも、自分の中で急な変更だった割にしっくりきている感じがするのも、全て神のご計画のうちであり、神から離れないでいたいという高校時代の願いを聞き入れてくださったのだろうと思います。
静岡での大学生活四年間、思えば本当に多くの方々に支えられてきました。最初は知り合いが誰一人おらずコロナで大学に行くこともない中、日曜日に教会に行くのが人と関わる数少ない機会でした。教会にはご聖体がありどこか知っている場所のように感じますし、多くの人が新人の私に温かい声をかけて下さいました。困ったときにと連絡先を教えてくださったり、ご飯をおすそ分けして頂いたり、色んな縁を与えられ、教会は私にとってまさに母のようであったと思います。日曜日は雨降りが大変少なく、カッパを持っていなかった私にとって本当にありがたかったのも、これらのこと全てが神のご計画の内だと思います。そしていったい神は私の今後の人生にどのような計画を立てておられるのか、わくわくしながら生きていきたいと思います。
2024年2月
祈りを生活の中へ
自ら祈る力を育てる部門 海野季以(八幡教会信徒)
2022年度から2年間にわたり「祈りのヘルパー養成講座」を受講しました。これは、「祈りたい人を呼び集め、祈りの会を重ねていけるガイド(ヘルパー)の養成」を目的として、静清地区共同宣教司牧委員会・自ら祈る力を育てる部門が主催し開講したものです。この講座を受講した「祈りのヘルパー」が、現在、各小教区で「祈りの集い」を開催しています。
ここで、講座で学んだ様々なお祈りの中から幾つかをご紹介いたします。
☆「レクチオ・ディヴィナ」
聖書を読むことそのものが本当の祈りになるというものです。聖書を、素手で、非常にゆっくり、行きつ戻りつ、何度も読みます。聖書の解釈は別の機会にすることとし、参考書を遠ざけ素手で向かうことによって、この聖書を通して、ここで神と出会うのだという意志をはっきりさせます。聖霊の働きのうちに、この時、この場所で、私と聖書の言葉が出会い対話することで、この私に今日、語られる神様からのメッセージに耳を澄ませます。
<具体的な手順の例> 一人で祈る場合
① 聖書の中の選んだ箇所をゆっくり声に出して読む。
② 前半だけを黙読する。
③ もう一度、全部をゆっくり声に出して読む。
④ 後半だけを黙読する。
⑤ 心がなぜか惹かれる言葉や句を選ぶ。
⑥ その言葉を三度、祈るような気持ちで声に出す。
⑦ その箇所を自由に味わう。
⑧ しめくくりの祈り(主の祈り、アヴェマリアの祈り、または自分で作った祈り)
*祈りのヘルパーが開催している「祈りの集い」では、これをグループで行い、互いに分かち合います。
☆「自然を味わう祈り」・「芸術を味わう祈り」
自然を通して神の創造の神秘、神の愛を味わいます。散歩したり、公園のベンチに座ったりして自然にふれます。あるいは、過去の経験を思い出し、素晴らしい自然の風景を黙想してもいいのです。「神様ありがとう」と言う必要はなく、例えば「気持ちいいな」と思うだけで感謝していることになります。
同じように、素晴らしい芸術(音楽・絵など)で祈ることもできます。
大切なことは、五感を通して祈ること、自然や芸術の中に神の神秘が満ち満ちているものとして、いつもと違う角度から自然や芸術にふれることです。
☆「呼吸を活かす祈り」
種々ありますが、ここでは、「イエスの御名の祈り」をご紹介します。
呼吸に合わせて「イエス」または「主イエス」と繰り返し唱えます。息を吸う時は何も唱えず(空白)吐く時に唱える、または、吸う時に唱えて吐く時は空白とします。ゆっくり、吸う時に「主」、吐く時に「イエス」と唱えてもよく、呼吸に合わせて繰り返します。ご復活されたイエス様がそばにいてくださると思って、感謝の気持ちでお祈りします。
☆「テゼの祈り」
短い聖句や祈りの言葉を、音楽にのせて繰り返し歌い、お祈りします。
<例>♪キリストの平和が わたしたちの心の隅々にまで ゆきわたりますように♪
心を込めて5回、繰り返して歌います。
祈りが生活とひとつになることが、目指していくところだと講座の中で伺いました。祈りが生活に生かされ、生活が神様へのお応えになるように、ということでした。
<参考文献>
来住英俊著「目からウロコ 聖書の読み方―レクチオ・ディヴィナ入門」(女子パウロ会)
2024年1月
共に歩んだ120年
静岡雙葉中学校・高等学校 宗教指導課 松岡葉子
本校は昨年、創立120周年の記念の年を迎えました。これまでに本校にお寄せいただいた教会関係者の皆様からの温かいご支援、お祈りに厚く御礼申し上げます。
カトリック静岡教会のレイ神父様に招かれて、幼きイエス会が静岡の地に「仏英女学校」を創立したのが1903年。その後、不二高等女学校、静岡雙葉中学校・高等学校と名前を変え、明治・大正・昭和の激動の時代を歩んでまいりました。1945年6月の静岡大空襲で校舎が全焼し、一度は閉鎖の決定が下されるも、当時の校長であったシスター熊田のご尽力によって1949年には新校舎が再建されました。戦前戦中の当局による締め付けや校舎焼失、戦後の荒廃の中からの再出発など、多くの苦難に見舞われながらも、今日まで歴史を紡ぐことができましたのは、静清地区の教会の皆様や、地域の方々のお支えによるものと感謝しております。
本校は「徳においては純真に 義務においては堅実に」の校訓のもと、キリスト教精神に根差した教育活動を行ってまいりました。「神様と人の前に素直で裏表がなく、さわやかな品性を備え、人としてやるべきことは最後まで責任を持って果たす強さを持つ」 。多くのシスター方が、この校訓をまさにその生き方を通して、生徒たちに教えてくださいました。校訓を毎日唱えずとも、日々の何気ない言葉・行いから、生徒たちはいつも学び、いつしか自分のものにしていきました。静岡雙葉にいる限りはこの校訓を守る、のではなく、日々変転する社会にあって、校訓の精神や静岡雙葉だからこそ学べたことを遺憾なく発揮している卒業生たちが多くいます。
本校で大切にされてきたキリスト教精神に基づく教育活動は多岐にわたります。宗教の授業は中1~高3までの全学年で週1回実施しています。聖書の教えを学ぶだけでなく、現代社会の課題にも目を向けることで、神様から与えられた自分自身の役割についても考えます。また、授業だけではなく、各学年で錬成会や黙想会が行われ、神父様やシスター方のお話から、神様から愛されているありのままの自分や他者との関わりを大切にすることなどを学びます。全校でミサに与る機会もあり、5月は聖母月、12月は待降節のお祈りを聖堂で行います。月例献金やクリスマスの時期に行われる福祉施設への訪問などは、創立者二コラ・バレ神父様に倣い、「小さくされている人たちへの愛あるまなざし」を体現するものとして大切に行われています。
そうは言っても、生徒のほとんどは本校に入学して初めてキリスト教に触れる生徒ばかりです。最初こそ戸惑う様子を見せるものの、いつしかお祈りの言葉にも慣れ、休み時間などにはつい聖歌を口ずさみ、校内美化を呼び掛けるポスターに聖句を用いるなど、それぞれがキリスト教に親しみ、体得していく様子が校内のあちらこちらで見ることができます。本校を卒業する生徒たちは、6年間の学校生活を通して、誰かのために行動し、祈ることができる精神的な成長を遂げて巣立っていきます。洗礼のお恵みをいただく生徒もいますが、そうした数には現れなくとも、人生を豊かに過ごすための多くの糧を本校で受け取り、「地の塩 世の光」として人生を歩んでいる卒業生の姿を嬉しく思っています。その意味で、本校が日本社会における福音宣教の最前線として果していく役割や責任は大きいと考えています。
次の100年へと歩む途上にある本校が、これからも地域の教会の方々に支えられながら共に歩んでいくことができるよう、神様に祈り求めてまいりたいと思います。
2023年12月
カトリック男子校での日常
千代田教会信徒 天野恭子
丘の上の中高一貫男子校に通い、美術という教科やカトリック校ならではの宗教的な行事などを生徒と共に取り組み、20年が過ぎた。だいぶ備品化が進んだ私は、どこにどう居ようと目立たなくなっている。そして今年度は、噂の「たいへんな」学年に入った。日々様々な小競り合いや珍事件、アンビリバボーなことが起きる。
ところが、である。
本校目標の「Be gentle」とは程遠い行いにもかかわらず、渦中の生徒が、天使に見えることが度々あるのだ。瞬間瞬間を生きるそのきらめきの故か、無垢さにおいてか。間違いをしても、魂に汚れが付いていない。うつくしいと例えてもよいだろう。圧倒される。ひょっとしたら、こちらの年齢の重ね具合のせいかもしれないが。これまでの観察と仮説と交流と推測の果てに、太刀打ちできない新鮮さを見せつけられる。いつでもそこを認めるところから始めるしかない。その素晴らしさを。
日常の会話より。
校内の聖堂でオルガンを弾いていると寮生がふらりと来て、十字架のイエスについて
「宗教でしょ、なのに何でこんなひどい姿を見なきゃならないんだろう。」
と問う。またある時、美術室でクリスマスのプレゼピオを陶土で作りながら、
「無ってどんなだろう、僕は白いぼわっと光ってるかんじかな。」
「何にもないんだから、闇なんじゃないかな。暗い、黒い。」
こんな会話もあった。また別の時、何かの作業をしながら
「親と大喧嘩して家を飛び出した。闇雲に歩いて完全に道に迷ってしまったとき、見上げると空に書いてあったんだ。『こっちだ』って。」
しあわせなのだと思う、充分に。こういう彼らと一緒にいることが。
もうひとつ大きなお恵みがある。廊下で誰か生徒とすれ違う時、私は思わず微笑んでしまう。ごく自然に「世界でいちばん大切な子」に感じることだ。未だ知らない生徒もすでに関わりのある生徒も同じく。
教科柄困ることといえば、生徒の後始末。全員帰宅させないと見えてこない散らかしっぱなしの美術室の掃除や、借した物なのに洗わないでそのままカチコチになってしまった筆を溶剤に漬け、時間を掛けてほぐし洗いをする。ふと気づく。自分自身も神に対して、親や人にも同じ振る舞いをしているんだろうなと思いが至る。
生徒の名誉のために。gentleな行為もそこかしこにある。自分は汚していないのに、人の片付けを進んでしてくれる人もいる。ちゃんといる。重い物をさりげなく代わって運んでくれたり、独りやその人数ではやりおおせない作業をしていると、ほんの通りがかりの子が快くしかも最後まで手伝ってくれたり。思わぬところでしっかり助けられてきた。至らないところもフォローしてもらっている。笑顔や言葉にも、日々。
ロバート先生が、しばしば廊下で生徒を引き留めて短いインタビューをしていらした姿を忘れない。生徒の顔は輝いていた。本当にひとりひとりを大切にされていた。今も夜遅い学校で、最果ての美術室から暗く長い廊下をひとり職員室に戻りながら、ロバート先生に会えるんじゃないかと期待してしまう。
誰かの痛みを自分のこととして感じ、動くことが出来たらと祈る。
2023年11月
『神のいつくしみの賛歌』
~来し方をかえりみて~
静清地区 協力司祭 岡村 巌神父
全能の神は無限の創造力をもって宇宙万物をつくられた。太陽を中心にした数知れない惑星の一つ、地球の中で、私たちは只一人の人間として生を与えられた。そこがたとえ戦争、災害,病いの中であっても、周りのまことの愛に包まれて人は成長する。
神のいつくしみは永遠
「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。」(コヘレト12:1)
神の愛の深さ、広さ、この世の存在の意味を学ぶため、神から呼ばれた同級の神学生43名、皆熱心に祈り、スポーツや勉学に励んだ日々を思い出す。
神のいつくしみは永遠
8年間の神学生生活、夏休みに与えられた自由な時間、仲間と共に丹沢山系の山登り、横岳、赤岳などの八ヶ岳縦走、槍ヶ岳、富士山のご来光に感激した日々、神の偉大さ、懐の広さを感じつつ、峻厳な山道を歩きながら、我が身の限界を思い知らされた日々。
神のいつくしみは永遠
司祭生活の歩みを振り返る。山手地区末吉町教会を皮切りに、浅田、山手、保土ヶ谷、戸塚。静岡県内の藤枝、沼津、浜松。信州の上田、小諸。湘南の小田原、箱根、真鶴。続いて静清地区の5つの教会、10余の教会で数知れない信者の皆さんと出会い、熱心な信仰に支えられ、ミサやロザリオの祈りを共にした恵みの日々に感謝。信者の皆さまの上に神の恩恵が豊かにありますように。
神のいつくしみは永遠
数知れない先輩の神父様方を思い出す。パリ・ミッション会のドラエ師、デヴィス師、デルポス師、ジャシェ師、ボンブレッド師、ルノー師。教区の浜口師、古谷師、池田師、松井師などなどの司祭方々。洗礼、堅信に次いで叙階の消えない印をいただき、聖務に励んだ今、天国では「生命の書」(黙示録20:12)に名を連ね、主の晩餐に参加されていることを思う。
神のいつくしみは永遠
まずもって「隗(かい)より始めよ」、常に自分をいましめ、これから与えられる日々を大切に生き、祈りを捧げつつ、周りのおとなも子供も大切に、花々を愛で、環境をととのえながら進みたい。そして人生の終りに永遠に輝く「小羊の光」(黙示録21:22-27)、イエス様、マリア様、諸聖人の栄光の輪の中に迎えられることを願いながら。
神のいつくしみは永遠
(2023年11月1日 諸聖人の祭日に)
2023年10月
『ロザリオの月』
~世界の平和のために~
草薙教会信徒 渡辺伸也
10月は、カトリック教会では『ロザリオの月』として大切にし、ロザリオの祈りを捧げます。「ロザリオ」という言葉は、日本語では「バラの花の冠」という意味です。「聖母マリアへの祈り」一つをバラの花と見立てて、それを続けて唱えることで、バラの花冠を編み上げるというイメージからきています。お祈りを数えながら唱える手の動きが、花冠を編んでいるように見えませんか?
10月をロザリオの月としたのは次のような出来事があったからです。10月7日は「ロザリオの聖母」の記念日ですが、これは1571年のギリシア・レパントの海戦でキリスト教徒がオスマン・トルコ軍に対して勝利を収めたことを記念して、聖ピオ五世教皇(1566~1572)によって定められました。この勝利は、ロザリオの祈りによってもたらされた聖母の助けによるものであると信じられています。またレオ十三世教皇(1878~1903)は10月を『ロザリオの月』と定めました。(カトリック中央審議会ホームページより)
ロザリオの祈りの特徴の一つは、繰り返しの祈りという点です。ロザリオの祈りは、珠を繰りながら、「主の祈り」と、「聖母マリアへの祈り」を繰り返していく祈りです。ただ繰り返すということだけに目を留めるならば、同じ祈りの言葉を50回もくどくどと述べてなんだか、意味のないことのように感じる人もいるかもしれません。でも、「繰り返し」は、いのちあるものに欠かせないしるしのひとつだと言えると思います。太陽は昇り、また沈みます。波は繰り返し打ち寄せます。心臓の鼓動、呼吸、全て繰り返しの中で私たちの命は続き、成長していっているのです。「繰り返す」ことは、上手になる秘訣でもあります。子どものころを思い出してみると、習字やピアノなどの習い事、スポーツの練習、計算や書き取りの勉強、どれもくり返しが大切です。その結果、上手にできるようになり、力を存分に発揮できるようになるのです。ロザリオのお祈りは、祈りの心も大きく強くすることができるのではないでしょうか。
私は静岡サレジオ小学校で教師をしていますが、静岡サレジオ小学校でも10月になると、子どもたちと教員が共にロザリオの祈りを捧げます。1か月の中で各クラス3日ずつ学園の中にある聖堂に集まり、お祈りを捧げます。本来ならこの時間は業間と言って子どもたちがボールや遊具を使って体を鍛えたり、自由に体を動かしたりすることができる時間です。そんな時間を子どもたちは、10月だけはお祈りの時間にしているのです。子どもたちが心を込めて一生懸命祈る姿は、とても真剣で立派な姿です。
マリア様はポルトガルのファティマやフランスのルルドという町で、子どもたちに現れて、「世界の平和のためにロザリオのお祈りを、心をこめて捧げてください」とお願いしました。マリア様がこのように言っていることを、はじめ、大人達は信じませんでした。でも、マリア様と出会った子どもたちが熱心に、しかも、しっかりとした態度で説明するので、ついには、全世界の教会が子どもたちを信じ、マリア様の本当の願いを知り、ロザリオのお祈りを世界の平和のために捧げるようになりました。マリア様の思いを受け継いで、10月のロザリオの祈りを世界の平和のためにお恵みを願ってお祈りいたしましょう。
2023年9月
「迷い、悩み、逃げの信仰生活」
清水教会信徒 五十嵐悦子
今回、教会報巻頭言の原稿のお話をいただいた時、まず「私はふさわしくない」とお断りいたしました。というのも、私は熱心な信仰生活を送っていませんし、祈るのは自分のこと中心ですし、教会の活動も避けてばかりですから。しかし、その依頼された方が、「ありのままを書いていいですから。」と、繰り返しおっしゃるので、ついに承諾してしまったのです。少し後悔しています。
私はカトリック系の短大在学中、学生寮で聖書の勉強を始め、英国国教会系の大学に編入し、宗派の違いや共通点を興味深く見聞きしながらカトリックの洗礼のお恵みをいただきました。三人の娘も幼児洗礼のお恵みをいただきました。でも残念ながら三人共、今は教会を離れています。現在私は37年間の公立中学校の教員生活を終え、完全に学校から離れ、高齢の父の通院の手伝いや孫の世話や時々ボランティアをしています。教会の活動のお誘いにはどこか抵抗を感じてしまい、応えきれず申し訳なく思っています。
働いている時は信仰することの大切さを痛感し、できるだけ御ミサにあずかれるようにしました。部活動や、持ち帰りの仕事や疲れのある中、日曜日の半日がなくなる現実の苦しさを感じながら、御ミサにあずかることが精神力の源の一つでした。仕事でもプライベートでも神様の教えと違うことをしなければならなかったり、どうしたらいいかわからなかったり、自分の我が出て失敗したり、悩み苦しむことが多々あったからです。信仰してなければこんなに悩まないかもしれないと思うこともありました。また、信者でなくても神様の愛を伝えているような行動をしている方に出会い救われることもありました。
なぜ私はイエス様に出会ったんだろうか。かつて、マザー・テレサのお話を聞く機会があり、その時彼女は「私の手伝いをインドでしたいという方がいますが、あなたのまわりを見てください。今、あなたを必要としている人がいますよ。」というようなお話をされました。信者がほとんどいない日本の社会でどう行動することがイエス・キリストに倣うことか、問われていると思います。
今の争いの多い世界をながめると、つくづく「人間って愚かだ」と思います。それは自分はもちろん、カトリックの歴史を見ても思います。
「神様ならどう考え行動するだろうか。」「マリア様ならこれをどう受けとめるだろう。」、私は困り、悩み苦しんだ時は最後、神様にすべてを預けて「私のすべきことを教えてください。」と祈ります。答えは見つかりませんが、いつの日か、自分の言動が神様のみ旨にかなうものとなりますように。そして世界中のすべての一人ひとりが平安な心で生活することができますように。
今回は、未熟でわがままな一人の信者の心をつづりました。この中に信者としてまちがった考えがありましたらお許しください。そしていつも私を支えてくださっている教会の方々に心より感謝を申し上げます。
2023年8月
静清地区を一つの共同体に
~新たな出会いと交わりを求めて~
静清地区共同宣教司牧推進担当司祭 和野信彦神父
横浜教区長梅村司教は2000年12月に「司牧書簡 交わりとしての教会を目指して」を発表し地区における共同宣教司牧を推進して参りました。2011年6月第一回教区懇談会の講話の中で「各地区の置かれている状況は全く違うので、(中略)地区のビジョンを作るときに地区としての優先課題を検討していただきたい」と述べています。
そのため、私たち静清地区としてこれからの共同宣教司牧のビジョン(優先課題)を検討するにあたり諮問機関として五人のメンバーと担当司祭にて「将来を考える会」を設置し2021年3月から2023年5月までの2年間ビジョン策定の作業を進めてきました。
作業内容として1年目を過去10年間のデータ整理とし、世代別信徒数と教会財政の変化について調査・検討し、今後10年後の地区の将来を分析しました。その結果を中間報告というかたちで2022年7月-8月各小教区を訪問し信徒の皆さんにご説明させていただきました。2年目は将来ビジョンを提案するにあたって、分析した結果からこれからの静清地区が目指していく方向と具体的な進め方について検討し、将来ビジョンのテーマを「静清地区を一つの共同体に~新たな出会いと交わりを求めて~」とし5月の地区共同宣教司牧委員会に答申し提案をいたしました。
地区の状況の分析より出された答申は「日本の将来人口や昨今の社会情勢、地区の財務状況、信徒数の状況を考慮すると現状の5教会を維持することは不可能と判断する」というものです。日本は世界一の高齢化社会を迎えていますが、教会はそれ以上の高齢化率です。そして、現実の教会を支えてくださっている方々はこの高齢者世代の信徒なのです。また、地勢的に狭い範囲に小規模の教会が存在する現状は合理性に欠け、大都会ではない静清地区においては経済的に維持していくことが将来的には不可能であると思われます。ですが、近い範囲に教会が密集していることのメリットもあります。それは、さまざまな活動を教会の枠を超えて連帯し交わることが可能になるということです。それぞれの教会の中だけで考えるのではなく、地区として捉えていくことによって教会活動や宣教の人材の活動の場を広げることが可能になるでしょう。
これは、「○○教会の信徒」から「静清地区のカトリック信者(信徒・修道者・司祭)」への意識転換を目標に据え、私たちの現実の資産としての教会を「静清地区の活動のための五つの共通拠点」として捉え「交わりの場」としての有効活用を目指すことが当面の課題といえます。
こうした答申を終え、「将来を考える会」は解散いたしました。しかし、これから具体的に実践していく「推進チーム(仮称)」の設置が必要であると地区共同宣教司牧委員会より要請を受け、「将来を考える会」のメンバーを中心としてより具体的な提案とサポートをしていくことになりました。目指すものは、
①「信徒一人ひとりが静清地区を一つの共同体と感じることができる宣教を中心とした教会活動の実施」のため。
②静清地区の財源・人材を効率的かつ効果的に活用するためにそれらを結集・再配置したより強固な運営体制の構築」のため。
③「静清地区が新たな共同体として生まれ変わるための意識改革と、将来にわたって維持・持続可能な再編」のためです。
これら3つを目標にし地区共同宣教司牧委員会として各教会委員会、各部門、各活動諸団体、修道会と協力し、静清地区におけるカトリック信者としての交わりが推進されるよう共同宣教司牧(Team Ministry)を進めて参りたいと思います。
2023年7月
清水教会建設の近況報告
カトリック清水教会建設委員
村岡明代
静清地区5教会の皆様には、日頃より清水教会建設のためにお祈りいただき、ありがとうございます。いつも祈り励まして下さる皆さまと建設の進み具合を共有したく、今回この紙面をお借りして中間報告をさせて頂こうと思います。
2014年、司祭・信徒館の耐震性が低く、床下腐食による危険個所が多々あるため建て替えの許可願いを教区に提出したところから今回の計画が始まりました。当初聖堂はそのまま使用する予定でしたが、聖堂の耐震も低く、大きな地震には耐えられないとの調査結果から、2015年10月には「司祭・信徒館建て替え」から「聖堂を含む教会施設建設への建設計画変更許可願い」を教区に提出しました。
しかし、現聖堂を耐震補強して使用を続けるか、新しく聖堂と信徒集会所とが一体化した建物にするかで意見が分かれ、時間ばかりが過ぎて行きました。信徒の間で意見が二分し、教会共同体としてのまとまりも脅かす様相に、2019年1月には補完性の原理に則り、「聖堂の今後について、決定は教区が執り行う」との通知を教区から受け取りました。その後教区から派遣された建築士の調査を基に、同年10月の司教顧問会で「現聖堂は保存せず、建て替える」との決定が下されました。これにより一旦は解散していた建設委員会を新たに立ち上げ、教区建設委員会委員の方々や、同委員長の谷脇神父様の協力も得て、建設理念の作成や建物の概要等の議論を重ね、その都度教区の承認を頂き、この5月、やっと設計士を選定するところまで漕ぎ着けました。教区から、これまで教区内の聖堂や施設の建設や改修に携わった建築士事務所をご紹介いただき、それらの会社が手がけた作品をネットで見たり、会社概要を参考にその中から3社を選びプロポーザルという形式でプランを出していただくことになりました。去る6月3日には清水教会において、敷地の現状など、現地説明会を行う予定でしたが、大雨で新幹線も止まったため、1週間延期となりました。この記事が皆さまのお手元に届くころには3社からのプランが出て、信徒の皆さまに見て頂いていると思います。
7月末には設計士を決定し、教区の承認を頂き、基本設計と実施設計に入ります。清水教会の信徒の皆さまには、その都度出来るだけ詳しく説明し、進み具合も明らかにしていくつもりです。 2024年6月からは既存の建物の解体工事に入り、7月から建設工事に取り掛かり、完成は2025年春から夏にかけての予定です。2025年の復活祭は新しい聖堂でお祝いしたい希望ですが、とかく建設というものは遅れがちなので、気を揉んでいるところです。あまり急がせても良くないので、素人の私たちには祈ることしかできません。
草薙教会の皆様には、教会施設をお借りして早や1年半以上が経ち、まだこれから約2年はご厄介になることで大きな犠牲とご迷惑をお掛けしていることを本当に申し訳なく、またありがたく、感謝しております。どうか大きな心でお支えください。
今後とも静清地区の皆さまの祈りが大きな力となるので、引き続きよろしくお願いいたします。
なお、現清水教会聖堂について、移築・保存したいとの申し出が教区にあり、現在協議中ですが、現時点では一般社団法人が設立され、同法人と教区が覚書を交わした上で、移築・保存する方向で調整しているとの中間報告を教区から受けました。
2023年6月
「こころの歌と歌のちから」
神の愛を証しする力を育てる部門 草薙教会 渡辺祐志
私には80年のこれまでの人生で出会った大切な「こころの歌」が三つあります。
一つは私がまだ小学生の頃に近所に出来て活動を始めたボーイスカウト(少年団)に、仲良しの友達と入団し習い覚えた愛唱歌「光の路(みち)」。
(1)「光の路」
大空を渡る日の光は清く 心地よき輝きに
闇は失せ行く 光の路を踏み行く我等永(とこし)
えに保たん明かるき心
二つ目は今から半世紀以上前、1971年に旅先の長崎で、浦上のカトリック信者の娘さんと運命的に出会いその9カ月後に結婚。その後、私も教会に通い始め、長男や長女の受洗を期に私も入信し歌うようになったカトリック典礼聖歌「神の計らいは」。
(2)「神の計らいは」
神の計らいは限りなく
生涯わたしは
その中に生きる
そして三つ目がカトリックのミッション校として小鹿の丘に、静岡聖光学院が開校した1969年から38年間、私は音楽の教師として勤めたのち退職。その後1年のブランクを経て、再び2008年から2023年の今日まで、生徒達と聖書研究会の活動を通して関わり続ける静岡聖光学院の校歌「聖光讃歌」です。
最初の歌「光の路」は、人生を明るく前向きに生きていこうと呼びかけます。次の聖歌「神の計らいは」では、神を信頼し生涯その恵みの中で生きることを誓う歌です。最後の「聖光賛歌」は生徒達がこれからの人生で出会うすべての事柄をたくましく受けとめ、生きて働く力に昇華し、聖書にもあるように力強く「地の塩」、「世の光」となるよう決心することを願う、格調高く心に響くすばらしい作品です。さてここからは最後に紹介した静岡聖光学院の校歌「聖光讃歌」を作詞されたカトリック信者で当時は静岡聖光の保護者でもあった作家、小川国夫氏が生徒達に呼び掛けた文章を紹介し「歌のちから」のまとめとします。
小川国夫 ━━━━━━━━━━ 聖光学院生に
校歌は飾り物ではありません。儀式や行事の時だけうたわれる歌ではありません。学校を代表する歌であるのは確かですが、それよりももっと大事なことがあります。というのは、みなさんの気持に直接うったえかける歌だということです。時にはやさしい慰めとして、また力強い励ましとして、みなさんに受け入れてもらえることを願いつつ、私はこの詩を作りました。私にはもう遠い昔のこととなった中学・高校時代のことを思い浮かべながら・・・・
しかし私自身の体験は小さな範囲のことです。そこから始めていくら想像してみても、みなさん一人一人の喜びや悲しみ、口惜しい気持ち、得意な気持ちが充分に解るわけはありません。それでも私はみなさんの経験するたくさんの瞬間に、この歌が寄り添っているように願うのです。そしてさらに学校の思い出と融け合って、この歌がみなさんの卒業後まで響いていることを願うのです。
(3)「聖光讃歌」
2023年5月
「教会活動を楽しんでいますか?」
静岡教会信徒 大木 弘之
昨年から静清地区宣教司牧委員を務めさせていただいております。
最近、「宣教」について面白いお話を聞くことができました。「宣教」と聞くと大そうなことと思ってしまうかもしれませんが、教会活動を楽しむことだと聞くと、自分でもできそうな気がします。キリスト教徒ですからキリストに倣い愛溢れるまなざしを持ち活動をし、教会が楽しく安全なところであれば自然と人も集まってきます。一人一人がこのように行動することが福音宣教の一つの形ではないでしょうか。一人一人が自らの言葉やスタイルで、キリストのまなざしをもって福音宣教するのです。難しく考えることももちろん大事ですが、単純さもまた必要ということです。
このお話は、実は岡谷にいらっしゃる聖公会の先の首座主教をされていた方からお聞きしました。最近妻に連れられてたびたび岡谷を訪れお話を聞きにいっています。一キリスト教徒のお話としてとても面白いと思いました。他にももっと奥深いお話がいくつもありますが、その中で私が理解できたことをご紹介させていただきました。
私の父は3年前に他界したばかりですが、生前はよくにこにこしながら*JOCという言葉を言っていました。若いころに母と一緒にJOCのメンバーといろいろと活動をしていたようです。その後コーラス隊に入り慰問もしたり、千代田教会の建設にかかわったり、晩年も歌の当番や老人ホームに慰問に行ったりと、ずいぶんと教会活動を楽しんでいたようです。
*JOC:青年キリスト者労働連盟の略(カトリック・アクションの一つ)
私は父のような教会活動はできませんが、自分の子どもに対して信仰を育てるという活動はできると思います。そのためには自分も教会活動を楽しまなければなりません。つまらなさそうにしていたら、娘は離れていくでしょう。娘は旅行に行った先々でもキリスト教徒として貴重な経験をしています。長崎に行ってはシスターと知り合いになりお手紙を頂いたり、津和野の乙女峠祭りで花まき少女をやったり、子どもなりにキリスト教徒であることを堪能しているのではないでしょうか。私自身もそうですが娘も、「教会は楽しいところだからおいでよ」と友達に言えるようになってくれたらと思います。
今年の復活祭で何人かの人が受洗され、静岡教会からも二名の小学生が受洗しました。教会での生活をキリストの愛溢れるまなざしに触れ合いながら楽しんでいただけるよう、皆様とともに応援していければと思います。
2023年4月
「離任のご挨拶」
清水・草薙教会主任司祭 髙橋愼一神父
この度、復活の主日をもって、清水教会、草薙教会の主任司祭の任を離れ、横浜市にあります末吉町教会、港南教会に主任司祭として転任することになりました。
草薙、清水および静清地区の信徒の皆様方には、9年間の宣教司牧活動においては本当にお世話になりました。なごり惜しい気持ちでいっぱいです。ありがとうございました。
静清地区では、現在、清水教会と静岡教会が将来の宣教司牧活動の必要性のために建築計画を進めています。これからは立場こそ異なりますが、同じ横浜教区の司祭として両教会の建設計画の実現のために共にお祈りさせて頂きます。
在任中は、主任司祭として69名の方々の洗礼式、39名の方々の堅信式、7名の方々の結婚式、68名の方々の葬儀に関りを持たせて頂きました。共同体として信徒の協力者の皆さんと共に、喜びと時に苦しみや悲しみを、共に体験させて頂いた事は大きな宝です。同じ信仰者としてこれからも互いに祈りあいましょう。
「4月からよろしくお願いいたします」
清水・草薙教会小教区管理者 濱田壮(あき)久(ひさ)神父
高橋神父様の後任として4月から静清地区でお世話になる濱田神父です。静清地区には2008年4月から2011年3月までお世話になって以来、12年ぶりです。皆様、どうぞよろしくお願いいたします。
私にとって静清地区で過ごした3年間は、司教館での見習い期間を終え、小教区と地区での司牧に初めて携わらせていただいた期間でもあり、いわば自分の司祭生活の土台を造って頂いた体験でした。静清地区を離れてからドイツに留学し、語学で悪戦苦闘していた時も、本当に静清地区での良い思い出が支えになり、頑張ることも出来ました。
聖パウロはフィリピの教会に「わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。」(Iフィリピ1:3-4)と書き送りました。私も静清地区の皆様のために同じ思いで祈っています。皆様とご一緒に歩めることを本当に楽しみにしています。
*2022年度「今月のメッセージ」掲載履歴
2023年3月
「兄弟、姉妹と共に住むのは 何と美しいことか」
・・・ 宣教体験より・・・
天使の聖母宣教修道女会 Sr.井上優子
1986年私が初めてペルーの地に派遣された時、中道左派のアラン・ガルシア大統領が政権を握っていましたが、国中が混乱状態にありテロ活動によって国土の4分の3の地域は非常
事態が宣言されていました。夜間外出禁止令が出されて以後10年間で一般市民2万人を超す犠牲者を出していました。このような状況の中で 私は日系二世のマヌエル加藤師(フランシスコ会OFM)から日系一世の集会を手伝うよう頼まれました。私の派遣される以前に日本人のシスター達と一人の信徒宣教者のチームが出来、一ヶ月に一回日本語のミサと例会を行っていました。移民した一世達は第二次世界大戦時には、日本に戻ることが出来なく苦労した人々でした。高齢に達し、二世、三世の息子、娘、孫たちに連れられ、一ヶ月に一度の例会の時には再会を楽しみに、のり巻き、お菓子を持って集い、日本の歌や沖縄出身者は歌と踊りで盛り上がりました。クリスマスには若い孫たちのバンドで一挙に賑やかになります。その一方、私は会が運営する診療所の一角にServicio Social を設けさせていただき、一人の信徒と共に週2回、50人ずつに分けた生活困窮者のため必要な食糧と衣類を届けるために家庭訪問をしたり、また結核患者には診療所の窓口へ連れて行きました。
数年後、私はリマから北へ90キロ先にあるワラール市のイスキベールの共同体に派遣されました。リマからバスで行くと3時間以上かかる非常に美しいが砂漠地帯と海岸地帯を通ります。ワラールの地は豊かな野菜、果物、魚類に恵まれています。ここも日本からの移民は約100年前にワラールに入り、綿栽培、土地を開拓し多くの野菜、みかん、柿を生産しています。1990~91年頃から2世、3世が日本への出稼ぎUターンが多くなりました。イスキベールの地では教区の「病者と老人の司牧」にあたり、その頃カナダ人の姉妹が休暇で留守になったため、頼まれた盲人の婦人を訪問するようになりました。
彼女は88才位で数年前に息子は行方不明となり、嫁は家財道具を持って実家へ、家に残された老母は自分のベット、机、イスと井戸のみ。彼女の祭壇にあるご受難のキリスト像は彼女の姿のように私の心に写りました。毎日朝食を持って30分かけて歩いて行きます。時には別の仕事をしなければならないこともありました。時間がないという理由で行くのをやめようとする時、ふと幼児イエスが「私には手も足もない」と呼び掛けてきます。その都度、今日も会いに行こうと思い直します。寄り添うと言う言葉は美しいです。ただし美しいだけでありません。共に生きる中に互いの苦しみを受けあい与え合うこと、これこそ私が出会った彼女からいただいたよき学びでした。見捨てられた体験のある盲婦人は主が呼ばれる時まで孤独でしたが、もはや暗闇のない光の世界に入り、永遠の喜びと平和にいることを疑うことはできません。長年住んだペルーは心の古里になっている今、多くの貧しい人々の友人を持ち、互いに分かち合った日々は “兄弟姉妹と共に住むのはなんと美しいこと”、これが私の宣教生活の中で頂いた大きな恵みの一つでした。
2023年2月
「世界は善に満ちている」
千代田教会信徒 坂本秀一
昨年の夏、ドイツに住んでいる大学時代の友人からこんな本が出版されたんだけど…というmailが届きました。本のタイトルは『世界は善に満ちている~トマス・アクィナス哲学講義~』([著]山本芳久)でした。友人は僕が大学時代トマスを卒論のテーマにしていたのを40年以上も経ったにもかかわらず、しっかり覚えていてくれたようでした。著者の山本芳久氏は若手(といっても1973年生の49歳)のカトリック信者の哲学者です。日本におけるトマスの研究者と言えば山田晶氏や稲垣良典氏の名前が上がりますが、山本氏は彼らとはまた違う観点からトマスの研究に取り組んでいるようでした。
トマス・アクィナスといえば、中世ヨーロッパを代表する神学者です。数多くの著作を残し、とりわけ『神学大全』はカトリック神学を体系化した作品として有名です。トマスは『神学大全』を初心者向けの教科書として書いたようですが、だからといって決して平易ということはなく、学生時代悪戦苦闘した思い出が甦ってきます。そんなトマスのことを扱った『世界は~ 』はきっと難しい話がたくさん書いてあるのだろう思いながら読みすすめたのですが、「哲学者」と「学生」の対話という形式で書かれているので、非常に読み易い作品でした。
ところで、「世界は善に満ちている」とはどういうことなのでしょうか。そんなことはあり得ないというのが通常の反応でしょう。なぜなら私たちの日常生活は、さまざまな悪と不幸にあふれ、世界には怒りと憎しみが満ちていると感じています(実際、コロナ禍やロシアのウクライナ侵攻など不条理なことばかりに満ちています)。それなのにどうして世界は「善」に満ちているといえるのでしょうか。
確かに創世記に記されているように、神は世界を創造していく際に、その日の終わりに自ら創造したものをご覧になって必ず「これを見て、良しとされた。」といっているのですから、そもそも世界は「善」に満ちているはずなのですが・・・。
著者の山本氏はトマスの感情論を基に世界が「善」に満ちていることを説いていきます。
トマスによれば、人は何か魅力あるものと出会うと、それに心をひかれ「いいなー」という感情を持ち、それを欲する(欲求)。トマスはその欲求を愛と呼び、愛の対象は「善」だというのです。
「善」と聞くと、道徳的によいという意味に捉えがちですが、トマスは、道徳的善だけでなく、私たちに何かしらの「価値」を与えてくれるものが「善」だという。その考え方に従えば、空気や水など私たちの身の回りにある多くのものが、「善」として捉えられることになるのです。人は「善」のなかで暮らしているともいえます。一方、「悪」は、そういう「善」が損なわれてしまう状態のことだといのです。「善」を損なうものが「悪」であるとするならば、この世界に何かしらの「善」が存在するからこそ、「悪」が存在するということになるはずです。原理的に、「善」は「悪」なしでも存在できるが、「悪」は「善」なしには存在できない。そこに「善」の絶対的優位があるのです。従って、もし「世界は悪に満ちている」と感じたとしても、実はそれらの「悪」に先行して、「善」がこの世界に満ちていることが前提になっているのです。「善」は「悪」よりも優位に立つ。これがトマスの根幹にある考え方であり、このような視点から世界を捉えると、より肯定的に生きていくことができるのではないかと著者の山本氏はいうのです。
確かに、世界に「悪」があふれているとしても、「善」が「悪」よりも優位に立っていると考えるならば、「善に対する愛」を軸に世界をより良い姿に変えていくことができることになるはずです。そうなるとこの世界はまだまだ捨てたものじゃないってことになります。未知の「善きこと」がこの世には、まだまだたくさんあります。私たちのできることは、それを見つけ心を寄せていくことです。ほんの少しだけで構わない。ものの見方を変えて身の回りの世界を肯定する。そうすれば必ず生き方は変えることができるはずです。そんなことをこの作品を通して気づかされました。
2023年1月
コロナ禍の中でも期待される横浜教区一粒会活動
横浜教区一粒会地区担当指導司祭(静清地区)
髙橋愼一神父
皆さま。明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。私は、静清地区に於いて一粒会地区担当司祭となっておりますので、今回は横浜教区の一粒会の活動について皆様にお知らせしたいと思います。
一粒会の目的・活動は、司祭の召し出しと成聖のために、祈りと犠牲をささげ、神学生養成のために経済援助をすることを目的としています。横浜教区長(司教)を会長として横浜教区内の信者が会員となることができます。一粒会の会員は、2021年6月末現在6184人でしたが、20年前と比べて約2300人の減少となっています。是非一人でも多くの信者の方に関心をもって頂き、入会をお願いしたいと思います。
横浜教区の司祭数は、1999年には、148人(内教区司祭44人)でしたが、2020年時点では90人(内教区司祭43人)に減少しております。このような状況の中で、2020年から2022年の間に5名の新司祭が叙階された事は、私たち横浜教区民として大きな喜びです。
アシジのフランシスコ祖父江優太師 2020年3月20日叙階
ライモンド 石渡洋行師 2020年7月17日叙階
ルドヴィコ茨木 西村英樹師 2021年3月20日叙階
ルカ 上杉優太師 2021年4月29日叙階
アウグスティヌス 水上健次師 2022年3月21日叙階
また、一粒会への献金収入もコロナ禍に見舞われた2020年度には、前年度に比べて500万円の減額となりました。2021年度には、コロナ禍からの回復を見込んでの予算立てでしたが、依然として感染は猛威を振るい続け、2020年度同様に500万円の減額に留まりました。一人の司祭が誕生するまでには、最低7年間(志願期1年間、哲学課程2年間、神学課程4年間)の養成課程を必要とします。このための費用、例えば、神学生の学費、生活費、東京カトリック神学院の運営のための分担金費用が会員の皆様の尊い献金でまかなわれています。
文の結びに「一粒会会員の祈り」を御紹介したいと思います。
◎司祭の召命を求める祈り
神である父よ、教会に聖霊のいぶきを注いでください。
あなたの愛の招きにこたえて、神とひとびとに仕える司祭を
わたしたちのうちから召し出してください。
主、キリストによって。アーメン
◎呼祷
使徒の元后、われらのために祈りたまえ。
日本の聖なる殉教者、われらのために祈りたまえ。
2022年12月
信仰を伝えるということ
静清地区信仰を伝える部門代表 清水教会 寺尾いづみ
私が高校生の時に参加した学連の研修会のテーマは「邂逅(かいこう)」だった。その趣旨は神との出会い、神の存在を身近かに感じるというもので、通常の研修会と違い学生同士の意見交換や討論はほとんどなく、指導司祭のお話を聴き、ひたすら黙想するという3日間を過ごした。その3日間で劇的に神を感じる等という事は願いこそすれ、あるわけも無く、ただ会場の藤沢聖園女学院の恵まれた自然環境の中、とても贅沢な時間を過ごした。沈黙の内、「邂逅」を求めてただ祈り、待つという姿勢で過ごしたその日々は不思議に平和な時が流れていた。
その平和で贅沢な時を過ごしていた私の心に浮かんだのは「神はこの自然の中に存在しているのではないだろうか」という感覚だった。それは穏やかな春の陽射しの中、広い校庭の枯れた芝生に座っていた時にふと心に浮かんだものだったが、ふと浮かんだにしてはその感覚は強い印象で心に残った。
そして後で振り返ってみるとその経験はその後の私の信仰に少なからず影響を与えた、というより今の自分の信仰の土台になったのかもしれないとあれから60年経った今、つくづく実感する。
あの時、若かった私は「邂逅」という言葉に圧倒されながらも私なりの経験をするというお恵みを頂いた訳だが、信仰を持ちそれを支えるのに「神を感じ、神と共に在る」という感覚はとても大切な事だと思う。ある時は聖書の言葉に、またある時はアヴェ・マリアの旋律に感動して神を感じる。その出会いは信仰の基盤の一部になるのではないだろうか。
数年前から私は清水教会の子供達に信仰を伝える役を引き受けている。彼らは私達大人とは全く違う、神様から祝福された素晴らしい存在だと心から思う。神から一番近い存在の彼らの心にいったい何を教えたらいいのか、思いつくのは純粋な彼らに「隣りにキリストがいつもいらっしゃるよ」と教える事。そして聖書の中のキリストの言葉、行動を伝える事が大切なことだと思う。自分が小さかった時、長いミサの時間は退屈で少し苦痛だった。それでも私達小さな子供は神父様や祭壇を眺めてミサが終わるのをじっと待っていたのだが、聖堂のガラス窓に朝日が差し込んで聖堂内がきれいだったのと、シスター達の歌う聖歌の声がとてもきれいで子供心にいつまでも聴いていたいと思っていた事はよく覚えている。ミサにあずかりながら聖堂内の祭壇、神父様達の祈る姿、非常に美しい聖歌の祈り等の雰囲気に霊的なものを感じ取っていたのだろうと思う。その後の日曜学校でシスターから紙芝居を見せてもらい、庭で遊んで帰宅したが、とても恵まれた幸せな幼児時代だった。子供心に「神様の世界に居る」という感覚を自然に知ることができたのかもしれない。
神に祝福されて生まれ、純粋な心を持つ教会の子供達が徐々にその大切な心を失ってしまわないよう、神の世界を意識して生きる大人に成長していける様、教会学校でも、家庭でも私達周りの大人には大きな責務があると思う。そして、基本的にはその後の事は神様にお任せする。これらのことが私にできる精いっぱいの事だと思うし、それでよいのだと信じている。
2022年11月
信仰生活を振り返って
八幡教会・信徒
近松 優実(大学3年生)
『信仰は与えられるものである。』この言葉を幾度か聞かされてきました。その度に自分は本当にそうだろうかと思ってきましたが、最近はその通りであると思うようになりました。
大学進学を機にこの地へやってきて早二年半、母がカトリックだったため、小さい頃から毎週日曜日に多治見市の多治見修道院に通っていました。両親に連れられるままに教会へ行き退屈な気持ちでミサに与っていた小学校時代から、中学へ入学して部活やテストを言い訳に教会をさぼるようになりました。高校でもそれが普通になり、あの時の私の心の中に神のための場所はほとんど用意されていなかったように思います。今考えるとそんな状態でどのように物事を判断していたのだろうかと思いますが、しかしそれでもほんの少し、心のどこかに神を信じる人への憧れがあったように思います。神に心奪われ驚くべき愛をもって証しした聖人たちに対し、羨ましさと、彼らとの途方もない距離に悲しみのような諦めのような感情を抱きました。今思うとそのもどかしさを感じないように、逃げていたのもあるかもしれません。
高慢にも、神への信仰があってもなくてもそう変わらないと思いあがっていた私でしたが、今までの人生で自分ではどうしようもできない壁にぶつかる度、神に祈ってきました。人間関係で悩んだ時や体調不良が続いて不安だった時など、そういう時だけ祈る自分の図々しさと惨めさを感じながら私は、神に対して普段は無関心なくせに、困ったときだけ頼るような人間ではありたくないと思いました。信仰を強めたいと思ったきっかけは他にも沢山ありますがこれもきっかけの1つです。苦しい経験をする度に少しずつ、少しずつ神へと引き寄せられながら、ようやく自分で歩みだした信仰生活でしたが、どんなに信仰深い自分でありたいと思っても、それは私にとって意志の力でどうにかできるものではありませんでした。人を愛することも、赦すことも、熱心に祈ることも、そうしたいと思っているのに出来ない自分を目の当たりにしては落ち込むことの繰り返しでした。そしてその繰り返しの中で私は、信仰が自分の意志で得たり強めたりするものではなく神から与えられることを理解していきました。また有名な聖人であるピオ神父は、魂の酸素という本の中で次のように書いています。
『自分の行いが、意図していたとおりにならなかったとしても、気を落としたり落胆しないでください。あなたは何を期待しているのですか?私たちは土でできており、土というものは、耕した者の期待どおりに実を結ぶわけではありません。しかし常に謙遜であることを忘れず、神の助けがなければ自分は無に等しいことを自覚しましょう。』
これらのことを理解するようになってからというもの、時々ふとした機会に、自分の中に真の愛はなく、信仰も平和もないように感じるようになりました。普段は恵まれた環境の中で、様々な出来事や周りの人に喜びや幸せを与えられることによって心に愛や信仰・平和を感じていて、それは自分の魂から湧き出て来るのではなくただ他動的なもののような気がします。また、もし自分の内から真の愛や信仰・平和が流れ出るとするならば、それはまさにぶどうの木の様に神と繋がったとき、神からのものが私を通して流れ出ていくのだろうとも思います。誘惑の多いこの世界で信仰の道のりはまだまだ険しいですが、いつかこんな体験ができるようどんな時でも謙遜に神により頼んでいきたいです。
2022年10月
「自ら祈る力を育てる部門」の活動
静岡教会:青木洋一郎
①「自ら祈る力を育てる部門」の活動
「自ら祈る力を育てる部門」は、担当する神父様と一緒に、講習会の手配・運営と、共同祈願における静清地区の意向を作るのが主な仕事でした。
これまでに行った講習会としては、2019年「『聖体授与の臨時の奉仕者』のための研修会」、2020年「『集会祭儀について』の研修会」、2021年の「聖書で祈る会 (レクツィオ・ディヴィーナ体験会)」などがあります。
静清地区共同祈願は、静清地区の5教会が同じ言葉で祈ることを意図したものでした。しかし、その後、共同祈願が長くなるという声もあり、2019年3月で一旦休止しています。静清地区の意向があった時には、司会席にその月の共同祈願文を用意するなども仕事のうちでした。また、以前から、神父様の監修のもと、集会祭儀の分担表や、それを含めたローテーション作成も行っていました。
②新型コロナウイルス感染症への対応
コロナ禍で緊急事態宣言が出て以降、典礼部門と連携して活動するようになりました。緊急事態宣言発出当時は、各教会の典礼部門と共に合同典礼委員会を開きました。簡素化ミサが行われるようになってから、あらためてスケジュール策定会議をもち、5教会に連絡しています。
スケジュール策定会議では、静清地区5教会から典礼部門担当者と「自ら祈る力を育てる部門」の担当者が集まり、各教会の事情を調整して、神父様方と一緒に、続く3ヶ月ほどの司祭ローテーション表を作り、その後、各教会の皆様にお知らせしています。
また、信徒講習会も「静清地区養成講座サポートチーム」の一部として運営する予定でした。これは、「共同宣教司牧サポートチーム神奈川」にならい、将来的には静岡県全4地区を横断して合同開催できるようにするためでした。しかし、コロナ対策のため、順延しています。
③本年度の活動と今後
今年度になって『祈りのヘルパー養成講座』がはじまっています。2021年実施のはずでしたが、コロナ対策の影響で延期となっており、1年の計画だったものを半年に期間を短縮し、今年度、やっと実施でるようになりました。
また、4月29日にオンラインも含めた「横浜教区典礼研修会」を実施しています。これは、待降節第一主日11/27から予定されているミサの新しい式文に対する準備として開催されたものです。
また、「清水教会のための祈り」を作成・配布しました。新聖堂の建設を控えた清水教会の信徒の方々が、良いお御堂を得られるように、それまで心穏やかに過ごせるように5教会みんなで祈っています。
未だ止まないコロナ禍による影響で多少の計画変更はあるものの、「自ら祈る力を育てる部門」の基本的役割は、今でも変わっていません。
2022年9月
敬老の日を祝う
八幡教会 岡村巌神父
猛暑の夏も過ぎ、秋の気配がそこかしこに感じられる季節になりました。
私がいる八幡教会は、幼稚園の運動場、西側およそ20mに渡って花壇があり、色とりどりの草花が咲いています。いつの間にか秋の花コスモスも咲き始め、園児たちの好きな蝶々やとんぼが飛び交っています。
9月は19日敬老の祝日を迎えます。
コロナ禍の勢いが収まらず、集会でのお祝いも控えることになる事でしょう。そんな中、高齢者のためにお祈りし、お祝いの心を示したいものです。この世に生を受けた者は、必然的に時間の中に置かれます。
人間ならば、何年何月何日何時に生まれ、乳児、幼児、少年、青年、壮年と進み、多くの場合結婚し子どもをもうけ、やがて孫を得て、おじいさん、おばあさんと呼ばれるようになります。
「祖父母は、膝の中に幼い孫をあやすように、その優しい心をもって、近所の恵まれない子にも、外国から難を逃れて来た家族にも救いの手を伸ばす様に。」教皇様は、高齢者の日の手紙で述べられました。
人は、与えられた時間を、神様の恵みに支えられながら、神様と他人に奉仕しながら歩み続けることが大切です。とは言え、高齢者にとって、死は、身近な問題です。死の向こうは真暗な闇なのでしょうか。それとも光明に満ちた世界なのでしょうか。死後の世界、天国は人知を超えた神様の支配する世界ですから、全てを神様にお委ねしなければならないでしょう。
神の子イエス様は人となられてこの世に誕生され、この世の人たちに真の幸せを与える為に働かれ、神の国を説き、病人を治し、遂には十字架の上で、全世界の人たちの罪の贖いの為にすべてのおん血を流されました。そして復活され、天に昇られ、聖霊を送られました。イエス様が行かれた天国は、新しい天と地が実存している所でありましょう。(ヨハネ黙示21:1)
「新しい都エルサレムには、それを照らす太陽も月も必要でない。神の栄光が都を照らしており、子羊(イエス様)が都の明かりだからある。」(黙示21:23)天国での新しい都にはマリア様始め、諸聖人方がおり、命の書に名が記されている者がおられます。名前のある者とは、洗礼を受け忠実に守り通したものでしょう。悪魔やその下僕たちは排除され、戦争などの無い平和が永遠に与えられています。
「臆病な者、不信仰な者、人を殺す者、情欲・貪欲な者、偶像礼拝者、この者たちは第二の死を受けることになる。(黙示21:8,コロサイ3:5)
すべての信者、そして高齢者は、「常に自分を律し、神のみ言葉を熱心に読み、日々祈り、秘跡にあずかり、典礼に参加しながら、内面を豊かにして、他人に奉仕し、与えられた人生を最後まで歩み続けるように。」これは教皇様のお言葉です。
“光明を浴びて歩みし 米寿まで
ただ感謝する我 秋の空“ (がん)
2022年8月
「神の愛を証しする部門」の活動
「神の愛を証しする部門」代表 清水教会 加藤千恵子
今年度「証し」部門の代表を引き受けた期に当たり、今回この部門の2015年度以降の活動を明らかにし、今後の活動について考えてみました。
1)2015年度以降取り組んで来た活動
2015年度は前年度に引き続き、静清地区の東日本大震災被災地支援活動・ボランティア活動への参加と、この年度から始めた船員司牧のクリスマスプレゼントを贈る活動があります。プレゼントは五教会が協力して準備し、清水教会担当者が清水港に出向き、船を訪れ船員さんにプレゼントを渡す形で実施しました。この2つの活動は2019年度まで続けました。また、この期間に静岡教会を会場として講演会開催にも取り組みました。2017年6月24日(土)には演題「原発事故による被災地の現状と活動」講師 畠中ちあき氏(カリタス南相馬所長)、2019年7月6日(土)には演題「福島に今必要なこと講師 名誉司教 幸田和生師、その他、船員司牧関係では2015年5月に演題「船員司牧について」講師 青木淳氏(横浜山手教会信徒、元船員)、2017年7月2日(日)清水教会にて、AOS横浜(当時の名称)主催の研修会に取り組みました。
その後は、東北被災地支援活動は終了となり、船員さんへのプレゼント活動はCOVID-19感染防止のため中止しています。
2)東日本大震災から11年を迎えた今、被災地に残されている課題
2022年3月11日(金)の新聞を見ると、「津波が襲った沿岸や市街地では、癒えぬ悲しみを抱きながら大切な人に思いを寄せ、それぞれが祈りを捧げた。」の記述があります。被災地から離れて住んでいる私たちは大震災への意識が薄まっても、被災地の人の悲しみは続いています。また、被災地に残されている課題―産業や暮らしの課題、原発事故のための帰還困難者の問題、「処理水」や「汚染土壌処理」、「廃炉作業」などは未解決です。このことを私たちは忘れず、名誉司教、幸田和生師が講演で言われた「苦しむ人と共にいて下さるキリスト」を証し出来るよう、被災地の人を大切に思い、寄り添う者でありたいです。また、福島の原発事故への関心をもち続け、福島の人々が受けた被害、苦しみを無意味にしないように脱原発への決断を真剣に考えて行きたいです。
3)船員さんの置かれている昨今の状況
2022年4月にステラマリス横浜からの便りが届きました。その中に船員さんは今、益々厳しい状況に置かれていることが書かれていました。コロナのため船が港についても上陸することが許されず、狭い船内に閉じ込められたままになっています。また、契約期間が終わっても交代の船員が来ないためずっと家に帰れません。ウクライナ戦争によって黒海周辺では通常の航海ができません。世界経済の悪化のためスリランカでは船を動かすための油が買えず船員さんの仕事がありません。私たちの目に見えない所で働き、苦しんでいる船員さんのことを思い出してお祈りをして欲しいと書かれていました。
4)「証し部門」の今後の活動として、東日本大震災被災者支援に何らかの形で取り組み、船員司牧活動の継続。また、困難を抱える外国籍信徒への関心を高める活動、カトリック新聞で継続して取り上げている日本の入管制度の問題点などについても考えて行きたいと思います。
2022年7月
「白(しら)南風(はえ)とともに」
静岡教会教会委員長 菊地 潔
主の平和
「2022年も早いもので残すところあと半年となりました」こんなあいさつが交わされるぐらい時の移り変わりのスピード感は早く、年々追いついていけなくなっています。
流行語はその時の世界情勢を表していますが、上半期では「完全試合」(プロ野球ですね)「トリプルコーク1440」(冬季オリンピック思い出してください!)「カムカムエブリバディ」(観たことありませんが・・)そして、「侵攻」もノミネートされていました。ロシアによるウクライナへの「侵攻」は、日本の高校生には世界史の授業で習っただけの戦争を毎日リアルタイムで報道される戦地の様子はとてもショッキングで涙する姿もテレビに映し出されていました。「侵攻」がこれ以上「進行」しないよう私たちの「信仰」をもって防ぎ、1日でも早い平和が訪れることを願うばかりです。また、人道支援としてカリタスジャパン緊急募金にもご協力いただきありがとうございます。メジャーリーグの大谷選手ではありませんが、私たち信徒は、「祈り」と「募金」の二刀流で引き続き支援をしたいものです。
さて、話題は変わりますがタイトルの「白南風(しらはえ)」とは、梅雨明けに吹く南風のことで、巻頭言に掲載される頃は梅雨明け間近って感じでしょうか。
静岡教会にも、白南風が吹く!そんな話題をお知らせいたします。静岡教会に吹く白南風は、ベトナム語によるミサが7月から行われます。
静岡県では2020年のデータで約13,000人のベトナム人が学び、働いています。カトリック信徒も多く、静清地区では草薙教会で第2日曜日の午後にベトナム語でミサを行っていました。平均100人、多い時で県内在留ベトナム人の1%にあたる130人から150人の信徒が草薙教会でのミサに与ります。このコロナ禍では密・密・密になりすぎる状況となり、このままではキャパシティ等いろいろな課題も生じてしまうということで草薙教会から静岡教会でミサが行えるか否か打診がありました。静岡教会の教会委員会でこの案件を諮り、承認を得て、その後ベトナム人信徒のリーダーの方々との打ち合わせを行った結果、7月の第2日曜日の午後3時から静岡教会でベトナム語のミサが始まります。
信徒の皆さまの中には、「なんで?WHY?」と驚かれる方もいるかもしれません。変化することに対して不安になり、戸惑う方や嫌がる方もいらっしゃるでしょう。しかし、私たちはこの2年間、「簡素化されたミサ」、「様々な教会活動の制約」からコロナ禍での信仰の在り方についてと大きな変化を既に体験しています。様々な変化に対する対応力は十分あるじゃないですか!これから起こる少しの変化にハラハラしている方、それはハラハラでなく、少し気持ちを変えるとドキドキ!ワクワクになります。教会が抱えるいろいろな問題も新しい風に背中を押され、その歩が少しずつ早まっていくかも!白南風にそんな期待を抱いています。
「誠実な友は、何ものにも代え難く、その素晴らしい値打ちは計り難い」(集会の書6の15)
わたしたちは、これから教会で同じ時間を共有するかけがえのない友達になります。互いにそれぞれが誰かの「誠実な友」になっていきましょう。
2022年6月
聖母マリアへの奉献
草薙教会委員長 嶋 光昭
主の平和。令和4年3月25日、教皇フランシスコは、ウクライナとロシアを汚れなき聖母の御心に奉献されました。
「神の母、わたしたちの母マリアよ、この苦難の時、あなたにより頼みます。母であるあなたは、わたしたちを愛し、わたしたちのことをご存じです。…わたしたちは平和の道を見失いました。…戦争によって地球の庭を荒廃させ、わたしたちが兄弟姉妹として生きることを望まれる御父のみ心を、罪によって傷つけてしまいました。わたしたちは、自分以外のすべての人や物事に無関心になってしまいました。そして、恥ずかしながらこう叫びます。『主よ、おゆるしください!』…神の母、わたしたちの母よ、あなたの汚れなきみ心に、わたしたち自身を、教会を、全人類を、とくにロシアとウクライナを厳かにゆだね、奉献いたします。わたしたちが信頼を込めて唱えるこの祈りを聞き入れてください。戦争を終わらせ、世界に平和をもたらしてください。…」(カトリック中央協議会ホームページ)
フランシスコ教皇様の血がにじむようなこの祈りの言葉は胸を打ちます。教皇様はロシアとウクライナだけではなく、全人類を聖母に奉献されました。この戦争は、ロシアだけの問題ではありません。全人類の問題です。戦争で亡くなられた人々はわたしたちの罪のために、わたしたちの代わりとなって犠牲になられたとも言えるのではないでしょうか。わたしたちは聖母のみ心をとおして主にゆだねられました。わたしたちを主と聖母の御心にふさわしいものとしてください。
聖ヨハネ・パウロ二世教皇が回勅『救い主の母』で触れられています、聖グレニョン・ド・モンフォールの『聖母マリアへのまことの信心』(愛心館刊)には聖母マリアへの自己奉献の霊妙な効能が熱く語られています。著者はマリアについてもっと知られなくてはならないと言います。「マリアが、世の人に知られ、マリアの支配が地上に来た後にこそ、はじめてキリストも、世の人に知られ、キリストの御国もこの世に来るのです。…キリストを地上に降誕させたのはマリアです。だから、キリストを世にかがやかすのも当然、この同じマリアでなければなりません。」(P28)「神は、へりくだるマリアを、ご自分の軍団の総指揮者、ご自分のタカラの管理者、恩寵の分配者、ご自分の大事業の現場監督、人類の改造者、人びとの仲介者、神の敵の粉砕者、ご自分の偉大さと勝利の同伴者となさいました。」(P41)「もしも人類のかしらイエス・キリストがマリアから生まれたのなら、このかしらのからだであるすべての救われる人も、当然の帰結として、マリアから生まれねばなりません。」(P44)「マリアこそ、イエス・キリストにいたるいちばん確実な、いちばん容易な、いちばん短い、いちばん完全な道だということがわかるでしょう。そして、完全にイエス・キリストのものになりきるために、自分のからだも、たましいも、残りくまなくマリアに捧げ尽くすでしょう。」(P72)
教皇様に心を合わせて祈ります。汚れなきおとめ、わたしのマリア様、わたしは、今日、そして永遠にわたし自身の奉献を新たにします。人々の霊魂の救いのために、わたしをご自由にお使いくださいますように。慢心に陥りやすいわたしを清めてください。無関心に流れやすいわたしを目覚めさせてください。東方正教会の兄弟姉妹を含め、すべての信仰者を一致させてください。世界に平和をお与えください。神に感謝。主に栄光。
2022年5月
「清水教会建設委員会より」
清水教会建設委員会 副委員長 村岡明代
2015年に持ち上がった清水教会施設建設について、諸事情によりだいぶ遅れていましたがやっと建設の目途が立ち、一度は解散した建設委員会もメンバーを一新して発足いたしました。近隣教会の皆様、特に草薙教会の皆様には大変なご迷惑とお世話をお掛けし心苦しい思いと共に、感謝の念でいっぱいです。まだ完成までかなりの時間を要すると思いますがどうぞよろしくお願いいたします。
先に記した通り、昨年12月に新建設委員会が教区から認定されたことにより、コロナ禍に配慮しつつ、昨年12月18日に教区建設委員会顧問の谷脇神父様をお迎えし、今後の進め方を教わりました。それに基づき今は「清水教会のビジョン」と「建設の理念」を策定しているところです。「清水教会ビジョン」はすでに2019年に作られていたため、建設委員会では「建設の理念」を中心に話し合い教区に提出し、現在は教区建設委員会と司教顧問会で検討していただいているところです。教区からの許可が下り次第次の段階に進むべく、拡大建設委員会を開催し(拡大~とは教区建設委員会メンバーと担当司祭である谷脇神父様が一緒に建設委員会に参加するものです)基本計画に入ります。
私たちの話し合いの中で出てきたことの一つに、隣接する保育園の園児達に教会を利用してもらい、神様のお話を聞いたり、神父様を身近に感じてもらう事は大切だということがありました。そこで建設委員会では、伊東教会のマルシャン神父様(パリ外国宣教会)をお招きし、「幼児の宗教教育に相応しい聖堂」についてお話を伺いました。マルシャン神父様は最初に、教会は何のために有るのかを考えましょうと述べられました。それは【イエス様の死と復活を記念し、賛美と感謝をささげるため】そして【イエス様の体になろうと意識する⇒共同体の一員である(ひとつの家族)】ということです。
聖堂を考える時には、聖週間の典礼を基にして飾りや祭具を考えるべきと神父様は仰います。まず聖木曜日は最後の晩餐を記念する日。イエス様が弟子たちと食卓を囲みパンとぶどう酒をささげて死と復活の記念を制定した日です。ここで重要な食卓は祭壇とつながります。祭壇は大きくある必要はなく皆で囲める小さなものが良いそうです。聖金曜日はご受難の日。私たちは十字架の礼拝を行います。その十字架は聖堂の壁に固定ではなく、普段は内陣に掲げられていても聖金曜日にはそれを降ろして礼拝できる移動可能にすることを勧めるとのこと。会衆が座る椅子や内陣の祭壇や朗読台は用途に応じて置き方を変えられる方が使い勝手が良い。ほかにも様々な細かい部分に触れ、大変参考になりました。
子供たちには聖堂に来て「美しい」や「ふしぎ」を見て欲しいし「心あるもの」を感じ取ってもらいたいとも。最後に、聖堂は個人的に祈るところではなく、共同体として祈るところです。日曜のミサが第一ですと仰り、これから聖堂を作るため、一つ一つの意味を考えながら皆で心を合わせていきましょうとお話を結ばれ、ユーモアを交えたお話の1時間半はあっという間に過ぎました。聖堂は聖週間の典礼を基に考えるというお話は私にはとても納得のいく点でした。
信徒の皆さんの中にはいつ頃できるのかと待ち遠しく思われている方も多々おられると聞いています。一日も早く完成を見たいという気持ちは同じです。皆さまのお祈りをお願いします。
2022年4月
「またあなたとともに」
司祭 和野信彦神父
全世界のカトリック教会はすでに「ローマ・ミサ典礼書第3版」を用いてミサを行っております。日本の教会は規範版第2版(ラテン語)の日本語版を1978年に発行し現在に至っています。しかし、これは規範版の全訳ではなかったので「暫定版」でした。そのため、2000年に全訳への改訂作業が決定しましたが、2002年にローマ・ミサ典礼書規範版第3版が発行されたため規範版第3版への改訂作業へと移行しました。
日本語版改訂作業を進めていく中で日本司教団は教皇庁の典礼秘跡省と意見交換や再提出などを重ねながら時間をかけてきました。そして、2021年5月典礼秘跡省は「ミサの式次第と第一~第四奉献文」、「ミサの結びの祝福と会衆のための祈り」、「水の祝福と灌水」の式文を公式に認証しました。ですが「公式祈願文」、「叙唱」、「入祭唱」、「拝領唱」などの改訂作業はこれから進められていくことになるので、現行のものを用いることとなります。また、歌唱ミサのための旋律もこれから発行されていくことになります。この「新しい式次第と奉献文」を用いてのミサは待降節第一主日(2022年11月27日)より開始されます。
さて、やっと全世界のカトリック教会と同じく規範版第3版でのミサを行うことができるようになるわけです。すべてが完成しているわけではありませんが、「新しい式次第」の変更点は中央協議会ウェブサイトからダウンロードできますし、秋頃には司祭用・会衆用が出版される予定だそうです。
これまでの式次第との変更点についてここで列挙することはいたしませんが、代表的なのは「(司祭)主は皆さんとともに」「(会衆)またあなたとともに」という表現でしょうか。規範版では「またあなたの霊とともに」と「霊」という言葉が入っています。これを入れるか入れないかで典礼秘跡省とのやりとりがあったと聞きました。まあ、神学的な論争はさておきミサの文言は何を指し示して発せられているのかということに重きを置いているのだとあらためて思います。所作もそうです、一つ一つの所作は意味があり目的があるということを教えられます。そうした文言と所作が儀礼としての調和を保って行われるとき、真の意味でのミサ聖祭が実現していくことになるのでしょう。
もちろん、新しい式次第の変更箇所については、「以前のものを用いてもよい」とある箇所もあります。新しい式文に違和感を覚える人も出てくるでしょう。でも、大切なことはローマ・ミサ典礼書規範版の文言(日本語版)に示されている意味をきちんと受け止めていくことです。好き嫌いではなく、カトリック教会のミサにおけることばは一致した信仰を表すものであることを第一にしなければなりません。今回、認証された式次第の文言を個人的に勝手に変更することは許されません。
そして、11月27日前に新しい式次第を行うことは教区長の特別許可が必要ですし、変更後に旧式次第を用いることも教区長の特別許可が必要となります。これからは新しい式次第の変更点についてともに学んでいく機会を地区として歩を合わせて設けていきたいと思います。
静岡市内5つのカトリック教会が
皆様のお越しをお待ちしております。
Welcome to Catholic Church in Shizuoka city (English)
Please visit our church. The door is opened at anytime. God loves us all equally. He is inviting everyone.If you want to know about Christianity, the Bible, prayer and mass, especially about the way of life. Please visit our church at anytime.
About our Church
There are 5 Catholic churches in Shizuoka city. They are Shizuoka and Chiyoda in Aoi ward, Yahata in Suruga ward, Shimizu and Kusanagi in Shimizu ward. Catholic Church in Shizuoka city is the community for joint mission of Christianity. Please visit churches nearby your house.
If you want to consult with a priest about catechism, Bible study, preparation to Sacraments, Baptism, First Communion, Confirmation and Marriage. Please contact with our church.
The Message from COMMUNITAS.
“COMMUNITAS” -Seishin district Migration Mobiles Association-
In recent years, we have seen an increase in the number of foreign-born Catholics as Japan allowed more foreigners to live and work in the country. They have become an integral part of the local Catholic community.
In Shizuoka, Communitas organizes an international mass and fiesta celebration every September to commemorate World Day of Migrants and Refugees. Both Japanese and foreign-born Catholics come together and celebrate cultural diversity united through our Catholic faith.
However, the COVID-19 outbreak has significantly affected our daily lives. Masses were temporarily suspended and social celebrations were cancelled. We had to adopt measures like wearing mask and social distancing to prevent the spread of the virus. Many people especially foreign residents, who were mostly engaged in contractual work, lost their jobs. Since they were engaged in minimum wage jobs, a lot of them do not have savings to rely on.
Communitas acted and organized a food donation drive. Through the generosity of our church community, Communitas was able to distribute food to foreign residents in need for two years. The beneficiaries greatly appreciated the help they received. Many tearfully recounted the struggles they experienced trying to navigate the bureaucracy to get help. A lot of them also suffered mental anguish over their ordeal. Things have improved lately. However, they continue to struggle financially especially the single parents. Returning to their home country is not an option because their home countries are also struggling economically due to the pandemic. Despite the challenges and the struggles, many foreign residents consider Japan as their home. They wish to contribute economically and socially and become integral members of the community.
In Pope Francis’ message for the 107th World Day of Migrants and Refugees 2021, he expressed an appeal “to journey together towards an ever wider “we” to all men and women, for the sake of renewing the human family, building together a future of justice and peace, and ensuring that no one is left behind.”
Let us continue to work together to achieve an even wider “we”.
Notice from "COMUNITAS"
a meeting of migrants in the Seishin area.
Public mass has been canceled in Shizuoka Prefecture. Sister Ana Maria provided information because there were many requests to convey information about Mass and Pastoral information in multiple languages.
INTERNATIONAL MISA in Facebook
◆ Spanish (APALA, a Spanish-speaking pastor under the Committee on Refugee and Migration)
Every Friday: Prayer and Believer Training Course pm 8:00, Sunday Mass.
Español: cada viernes oración 8pm, y cada Domingo Misa online
https://www.facebook.com/Apala-Jap%C3%B3n-102331995226909/?view_public_for=102331995226909
◆ Portuguese Hamamatsu Church Portuguese Community Page Every Saturday 7:30 pm
Portugues Cada 6a feira Terço, cada sábado Missa 7:30 pm
https://www.facebook.com/catolicahamamatsu/?ref=page_internal
◆ English-Tagalog Zoom Misa Halina't Magpasalamat
https://www.facebook.com/groups/1028338131327031
*Comunitas information for migrants.(Spanish. Portuguese. English. Tagalog)
5 Catholic Churches in Shizuoka city (Seishin Area)
Shizuoka Catholic Church (St. Dominic)
Address; 1-5 Jounai-cho Aoi ward, Shizuoka city 〒420-0854
Public Transportations; JR Shizuoka-Station 15 minutes walk from North exit.
Shizutetsu Line’s Shinshizuoka-Station 10 minutes walk from Senova exit.
Japanese mass Sunday 10:30
English mass 3rd Sunday 13:00
Vietnamese mass 2nd Sunday 15:00
Chiyoda Catholic Church (St. John Baptist)
Address; 1-18-14 Higashichiyoda Aoi ward, Shizuoka city 〒420-0801 ☎054-261-7754
Public Transportations; Shizutetsu-Bus Senashinden-Line, from Agetsuchi-dannchimae stop, 5 minutes walk.Shizutetsu Line’s Furusho-Station 20 minutes walk
Japanese mass Sunday 9:00
Litugy of the word 2nd Sunday 9:00
Yahata Catholic Church (St. Maria Mother of God)
Address; 4-10-14 Yahata Suruga ward, Shizuoka city 〒422-8076 ☎054-282-5629
Public Transportations; JR Shizuoka-Station 15 minutes walk from South exit.
Japanese mass Sunday 9:00
Japanese mass Thursday 10:00
Japanese mass 1st Friday 10:00
Shimizu Catholic Church (Holy Mother of Boulogne)
At present, Mass of Shimizu is held at Kusanagi church.
Japanese mass Sunday 11:00
Portuguese mass 1st Sunday 14:00
Kusanagi Catholic Church (St. Paul)
Address; 2-5-12 Nakanogo Shimizu ward, Shizuoka city 〒424-0888 ☎054-345-4792
Public Transportations; JR Kusanagi-Station 8 minutes walk from South exit.
Shizutetsu Line’s Kusanagi-Station 5 minutes walk.
Japanese mass Sunday 8:30
静清地区共同宣教司牧委員会の活動 👈ここをクリック
第2回静清地区共同宣教司牧委員会議事録
2024年10月6日 静岡教会信徒会館
2024年度第2回静清地区共同宣教司牧委員会議事録
1.日 時 2024年10月6日(日)14:00~16:35
2.場 所 静岡教会 信徒ホール
3.出席者 19名
4.議 題
(1)各担当者の交代
なし
(2)第14回横浜教区懇談会参加者報告
ア.村岡明代さん(清水教会)
・司教様より現状報告
・静清地区としても銀祝のお祝いをしたいと感じた。
イ.鈴木直子さん(千代田教会)
・今回のテーマは「地区全体の報告」「カトリック全体の動き」に加えて、「霊における会話」が重要。黙想しながらグループワークを行った。地区に報告書が送られてくる。
・教皇様の問題意識は「温暖化」「環境問題」。各地区でも取り上げてほしい。
ウ.フィー神父様
・特になし
(3)各部門・からの近況報告・提案・意見交換など
ア.自ら祈る力を育てる部門
・後期補正予算案申請(9/9(月)提出済み)
・「聖書の言葉で祈る」(10/5(土)@千代田教会)
→20名参加し、テゼの祈り等を行った。今後も続けてゆきたい。
・大石神学生のための祈り
→地区としては扱わない
→古川神父様「地区として毎週行うのは相応しくない。神学生はまだ公の人間でなく私人の立場。応援してもらうのは嬉しいが、義務化は避けたい。神学生は辞めることもありうるし、やめる道も確保すべき。年に1~2回でいいのでは。」
→よく知っている人だから祈りたいというのは止めないが、各教会に任せる。
「静清地区の祈り」は今後改めて考える
・合同堅信式式次第案
→チェック済みで編集中。
→聖体拝領やマリアンホールでの配置や動きについても詰める。
・受堅証明書の提出
→9/25(金)〆切になっているが、10/27(日)。
イ.信仰を伝える力を育てる部門
・入門コース「ともに歩むための集い」
→静岡・草薙で3コース。7/27(土)に昨年度学んだヘルパーと分かち合い。
Sr.テレーゼの送別会も実施。
・堅信式
→名簿作成中だが毎週のように増え、総勢30名。
今週末までで〆切。(これ以上増えると、勉強が間に合わないのでは。)
ウ.ホームページ
・合同堅信式の詳細(地図やコインパーキング等)を掲載。
開場時刻は9:00(9:30から変更)
エ.神の愛を証しする力を育てる部門
1. 講演会実施計画
・講演テーマ 「‘ふじのくにフードバンク’から見える静岡市民の生活」
・講師 ‘ふじのくにフードバンク’理事、事務局長 望月健次 氏
・日時 2025年2月1日(土)午後1時~午後3時 (講演90分、質疑応答30分)
*講演会計画・立案の経緯
・2024年6月8日(土)古川神父様の講話にて示唆を頂いた。「神の愛」部門の使命は
地域社会の弱い立場に置かれている人々との交わりを通して神の愛を知らせること。
この部門は新しい活動を始めることより、すでに行われている市民活動を把握する作業から始めると良い。
・‘ふじのくにフードバンク’理事、事務局長 望月健次氏とのコンタクトをとれる機会があった。6月下旬にサレジオ学園にてボランティア大会が開催され、そこに望月氏は助言者として参加されていた。草薙教会 増井さんを通して望月氏に講演依頼の可能性を打診し、内諾を得た。この時、望月氏から現状の厳しさを考えると、出来るだけ早い時期に講演会実施をとの要望があった。
・2024年9月28日(土)部門会議にて審議し、計画作成
・2024年10月3日(木)静岡社会福祉会館にて、部門代表、加藤が望月氏と面会し打ち合わせを実施。
・望月氏は食品ロス削減推進委員でもある。梅村司教様が本年の教区懇談会にて「環境問題」を「神の愛」部門で取り上げることを要望されて折り、この講演で食品ロス削減の問題にも触れて頂くことによって司教様の要望にも沿えるものと考える。
2. 2024年予算案
総予算額35,000円 内訳:講師謝礼30,000円 内訳:講師謝礼 30,000円、事務費、雑費 5,000円
1. ②について承認された。
オ.教会学校連合リーダー会
・サマーキャンプ
→8/5(月)~8/6(火)@静岡聖光学院修道院(報告はHPに掲載済み)
小中学生17名参加。1人2,000円予定だったが、校長の教会学校からお金を取るべきでないという考えにより、全体で3,000円支払い。
カ.コムニタス
・合同堅信式の祝賀会
→9/14(土)定例会で、サレジオに行って実際の場所を見ながら会議。
→カフェテリア内とカフェテリア前で約150名の来場を想定。(予算10万円程度)
カフェテリア内に10のテーブルの島を作る。(1卓あたり15名程度を想定)
椅子も壁際にできるだけ準備する予定。
→食事(おむすび、おいなり、パン、お菓子、オードブル)
飲み物(温かいもの・冷たいもの)
→10/19(土)定例会で最後の準備(コムニタスの配置・流れ・動線等)
→駐車場があまりないので、以下のようにしたい。(駐車券発行)
司教1、神父様5、実行委員7、テント設置要員3、バンド8、
祈る部門2、車椅子利用者1、会場案内係1(他に必要ならば10/27(日)申請)
・お米の寄付金
→昨年度はインターナショナルミサの当日までを含めてお米の販売。今年度はその残金でお米の配付が実施できている。
・シスターたち(日本を離れる2名)の活動を引き継いでゆく準備
(4)各小教区からの近況報告・提案・意見交換など
ア.清水教会
・建設進捗状況~埋蔵文化財など特に問題なく進行できる。司祭館の物を動かす必要。
・10/13(日)教区建設委員より2名来静。拡大建設委員会としてアドバイスいただく。
・10/27臨時信徒大会開催。
・年内に測量やボーリング、司祭館取り壊し。年明けに建設会社決定
イ.草薙教会
・3月末にかけて司祭館と聖堂の屋根を修復するも、その後、追加の工事。
・聖堂の傷みに修繕必要。教会維持に必要なものを積極的に意識。
・ロザリオ月~ミサ8:30の15分前から2連のみ実施。
ウ.千代田教会
・エアコンの維持、清掃。
・聖堂が2階にあるので足の不自由な方への対応を検討中。
エ.八幡教会
・ロザリオ月~8:30よりロザリオ5連実施。
・敷地が広くなる可能性(聖堂裏に20m道路ができる。余った土地を買うかどうか。)
10~15年かかるが、うまくいけば広い道から出入りできるかもしれない。
オ.静岡教会
・コロナ禍中止にしていた土曜夜のミサを9/28(土)から再開(月に1回)。35名参加。
→試験的にやっていく予定。他教会からも参加可。(HPに掲載済み)
・修繕~信徒会館のエアコンを総取り替えしたものの、十字架の腐食が激しいので、そちらを最優先に行いたい。雨漏りもある。2階への立ち入りをどうするか。
(5)司祭・修道会より
ア.司祭
・古川神父様~特になし
・濱田神父様~草薙教会 ミサ献金が増える
・フィー神父様~特になし
イ.修道会
・修道者10名から異動があり、現在7名。今年3月に総長が来日。
・Sr.テレーゼ~8/15(木)コンゴへ
・Sr.エディータ~ルワンダ帰国中。自身の召命を見つめ直す。
・Sr.アナマリア~ルワンダへ異動。父危篤のため7月に帰国し、現在休暇中。
11月初旬再来日し、12月ごろルワンダへ出かける予定。
・ベトナムからの若いシスター2人も勉強中。
(6)静清地区の今後を考える会「推進チーム」より
・書類の取扱注意(金額掲載のため)
・「考える会」和野神父→古川神父(活動を理解してもらう)
・将来収支の見直し(累積赤字)~ミサ献金の推移(戻ってきている)
→月定献金は想定通り下がっている(特別献金に振り分けているため?)
→支出はやや減っている(宗教活動費の低下は活動の縮小)
→事務運営費は想定よりも高い
→維持管理費も含めて今後、どの教会も赤字が続く傾向(想定)
→前回の想定よりも今回の想定のほうが悪化していることが問題
収入~ミサ献金はコロナ禍前までほぼ回復。月定献金は減少傾向。
・資産積立状況→将来の教会施設整備方針の必要性(今後を見通した方針)
・提案1~冠婚葬祭の奉仕者の共有化
→各教会で相談をできる体制づくり。(冠婚葬祭連絡の窓口を作る。)
→教会委員長から担当者の見える化。(氏名・電話番号・メールアドレスを大木さんに今月中に)
・提案2~教会ニュースの共通化(巻頭言+α)
→HPではできているが、紙媒体でも可能か。(HP一本化は難しい)
→各教会のHPは各担当者がそれぞれの判断で掲載。
(一般の人も見るので、あまり細かいこと(教会委員会の議事など)は載せられない。肖像権なども問題。)
→閲覧可能でない人への対応。
・建物のメンテナンスは10~20年に一度は必要
・信者登録をしていない若い外国籍信徒への対応(月定献金の習慣化)
(7)その他
ア.3部門が教会委員会に出なければいけないか。
・各部門で話し合ったことを、各教会委員会で諮ることができない。
・各部門議事録を役員会の中で共有したいので、副会長か会長に送ってほしい
→大木弘之ohki0324@yahoo.co.jp
田中雅浩sirahagi1812@yahoo.co.jp
イ. 堅信式ポスター
・「マリアンホール」→「静岡サレジオ」に文言変更
・外国語(英語・ポルトガル語)によるポスター
→濱田神父様を通じて、ポルトガル語コミュニティに依頼
コムニタスを通じて、英語コミュニティに依頼
・駐車場、駅からの経路
→HPデータより転載
ウ.合同堅信式当日
・会場係4名、駐車場係4名→証しする部門より
・堅信式でドンボスコの生具や本を販売してもよいか
エ.静岡・清水市民クリスマス実行委員会
・クリスマスコンサート(アマリアさん)
→12/3(火)19:00@静岡市清水文化会館マリナート大ホール(全席自由・1,000円)
チケットが必要な場合は福塚さんへ
オ.司教様銀祝
・ワイン 5000~8000円くらい?
カ.次回合同堅信式準備委員会
・10/27(日)14:30@静岡教会¥
(8)次回の役員会と委員会
・役員会 2月19日(水)19:00(オンライン)
・委員会 2月23日(日)14:00(静岡教会 信徒ホール)
以上
静岡市のカトリック教会・更新履歴
2024.11.18 静清地区合同堅信式のご報告をトップページに掲載しました。
2024.11.01 千代田教会信徒の山田麻依さんがメッセージを寄せてくださいました。
2024.10.15 静岡・清水市民クリスマス・コンサートのお知らせを掲載しました。
2024.10.01 濱田壮久神父様がメッセージを寄せてくださいました。
2024.09.01 八幡教会信徒の田中雅浩さんがメッセージを寄せてくださいました。
2024.08.11 静清地区教会学校リーダー会主催で8月5,6日に開催されたサマーイベントの報告を掲載しました。
2024.08.01 自ら祈る力を育てる部門の瀧 規子さん(清水教会)がメッセージを寄せてくださいました。
2024.07.01 神の愛を証しする力を育てる部門の國松 彰さん(静岡教会)がメッセージを寄せてくださいました。
2024.06.16 古川勉神父様、タン・ホワン・フィー神父様、着任のご挨拶を掲載しました。
2024.06.01 信仰を伝える力を育てる部門の菊地潔さんがメッセージを寄せてくださいました。
2024.05.01 星美学園・静岡サレジオ高校の中村さとみ教頭先生がメッセージを寄せてくださいました。
2024.04.01 清水教会の信徒山本博美さんがメッセージを寄せてくださいました。
2024.03.18 第3回静清地区共同宣教司牧委員会議事録を掲載しました。
2024.03.18 キリスト教講座「共に歩むための集い」募集案内を掲載しました。
2024.03.01 静清地区入門講座担当者養成コース修了式・派遣ミサの記録を掲載しました。
2024.03.01 八幡教会の大学生・近松優実さんがメッセージを寄せてくださいました。
2024.02.01 自ら祈る力を育てる部門の海野季以さんがメッセージを寄せてくださいました。
2024.01.01 静岡雙葉中学高等学校の松岡葉子さんがメッセージを寄せてくださいました。今年から静岡市内のカトリック学校もメッセージ担当に参加してくださいます。
2023.12.24 静清地区教会学校クリスマス会の記録を掲載しました。
2023.12.01 千代田教会信徒の天野恭子さんがメッセージを寄せてくださいました。
2023.11.01 神の愛を証しする部門が岡村勝氏の講演会記録を掲載しました。
2023.11.01 岡村巌神父様が「神のいつくしみの賛歌」を寄せてくださいました。
2023.10.08 第27回インターナショナルミサの記録を掲載しました。
2023.10.05 第2回静清地区講演会のお知らせを掲載しました。
2023.10.01 第37回静岡・清水市民クリスマス・コンサートのお知らせを掲載しました。
2023.10.01 草薙教会信徒の渡辺伸也さんがメッセージを寄せてくださいました。
2023.09.01 信仰を伝える部門の五十嵐悦子さん(清水教会)がメッセージを寄せてくださいました。
2023.08.13 インタナショナル・ミサ(9/24)のお知らせを掲載しました。
2023.08.05 静清地区教会学校「夏のイベント」の記録写真を掲載しました。
2023.08.01 共同宣教司牧推進担当司祭、和野信彦神父様が「静清地区を一つの共同体に」のメッセージを寄せてくださいました。
2023.07.01 清水教会建設委員の村岡明代さんが近況報告を寄せてくださいました。
2023.06.01 神の愛を証しする部門、渡辺祐志さんのメッセージを掲載しました。
2023.05.01 第1回静清地区講演会「日本の入管制度の問題点と難民支援」のお知らせ。
2023.05.01 静岡教会信徒、大木弘之さんのメッセージを掲載しました。
2023.04.01 高橋愼一神父様、濱田壮久神父様のメッセージを掲載しました。
2023.03.01 天使の聖母宣教修道女会の井上優子シスターのメッセージを掲載しました。
2023.02.01 千代田教会の坂本秀一さんのメッセージを掲載しました。
2023.01.01 髙橋愼一神父様のメッセージを掲載しました。
2022. 12.01 今月のメッセージ、信仰を伝える部門寺尾いづみさんのメッセージを掲載しました。
2022. 11.06 静清地区合同堅信式と梅村司教様との地区懇談会の記録を掲載しました。
2022. 11.01 英文案内、第2回共同宣教司牧委員会議事録を掲載しました。
2022. 11.01 今月のメッセージ11月号、八幡教会の近松優実さんのメッセージを掲載しました。
2022. 10.01 静岡市内5教会公式ホームページが新しくなりました。ぜひ多くの方にご紹介ください。
ご質問ご相談などがありましたら、
静清地区5教会に直接お問い合わせください。